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ソーンダイク『占星術鑑(スぺクルム・アストロノミアエ)』の来歴 7


〔『鑑』は1277年以前に著された〕しかしアルベルトゥスが『鑑』の著者であるとするなら、ここまでに証したところからこの書が1277年以前に書かれたということに対する深刻な反駁が生じる。『鑑』の著者はアリストテレスの『形而上学』第十二、十三巻(つまり現行の十三、十四巻)が「いまだ翻訳されていない」と記している[1]。しかしアルベルトゥスはこれらの巻を入手し、自らの『形而上学註解』でパラフレーズしてみせている。これはマンドネ[2]自身がいたるところで論じてみせているように、1256年に完成している。アクィナスは1270年に著された彼の『知性の一性についてアヴェロエス主義者たちを論駁するDe unitate intellectus contra Averroistas』で、いまだ『形而上学』最終諸巻は訳されていないと記しているようにみえる[3]。一方グラープマンは、アルベルトゥスが1270年以降に『形而上学』の最終諸巻を含む註解を改訂したものに違いないと論じている[4]。しかしこれまた、アルベルトゥスあるいは誰であろうとこの書の著者が1277年あるいは1278年に『形而上学』最終諸巻が「いまだ翻訳されていない」と言い得たことを説明できなくなる。アルベルトゥスは1280年に没しており、これを1277年以降に翻訳することも註解することもできなかったろうから。それはルッカのプトレマイオスが、彼(アルベルトゥス)は死の三年前から知性が衰弱していたと言っているから。それゆえ、『星学(占星術)鑑』はどう見ても1277以前、おそらく1256年以前に書かれたものであった。
〔ブラバンのシゲルスの断罪〕ここで『星学(占星術)鑑』と直接関係がないようにみえるにしても、隠秘的な業の数々および占星術に対する神学的論駁の幾つかの事例について考察しておかねばならない。つまり1277年のパリ司教ステパノスおよび「聖書学者たち」による「ブラバンのシゲルス、ダキアのボエチウスその他に帰される」219箇条の断罪について。シゲルスはどうやら公然たるアヴェロエス主義者で、占星術師たちや隠秘自然学者たちよりもキリスト教信仰と和解し難い諸見解を提起した人だった。しかし、彼に敵対する者たちは彼の諸見解を誤解しあるいは誇張してみせたのだったのかもしれない。マンドネは、シゲルスが断罪箇条の多くは自説ではないと考えていた一方、論敵たちはそこにアルベルトゥス・マグヌスやアクィナスの穏健(中庸)な見解をも挿入することで、不信者たち、アヴェロエス主義者たちそして穏健(中庸)なアリストテレス主義者たちをまで類同なものとみなし、アルベルトゥスやアクィナスが唱導したアリストテレスと教会教義の和解に信を置かなかった[5]。とはいえダンテはシゲルスを天国に据えている。
〔星学(占星術)、(科学)知識、宗教にかかわる断罪箇条〕これらの箇条には星学(占星術)にかかわるものがかなり多く含まれ、これらに僅かばかり(科学)知識と宗教にかかわるものが付加されている。穏健(中庸)な三十番目の箇条は他の諸箇条と内容的に整合性がなく、二百七箇条の末尾は断罪者たちによって挿入された解説で、彼らですらある限度のうちにではあるものの諸星辰の注入(影響)を認めているように見える。いずれにせよこの断罪は直接占星術を論駁することに向けられている訳ではなく、諸箇条には占星術を生業にする者たちが信じていたと思われることがらおよび敵対者たちが彼らの何に反撃し、何のために断罪しているかを見せてくれるところが興味深い。

6. 「すべての天体は三万六千年で同じ点に戻るのであるが、そのときには現在と同じ結果がふたたび繰り返されであろう。」Quod redeuntibus corporibus coelestibus omnibus in idem punctum, quod fit in xxx sex milibus annorum, redibunt idem effectus, qui sunt modo.[m92]すべての天体が36000年ごとに同じ点に戻る時、新たに同じことがらが起こるであろう。[6]
30. 「上位の知性実体は理性的霊魂を天の運動なしに創造するが、これに対して、下位の知性実体は栄養的霊魂と感覚的霊魂を天の運動を媒介にして創造する」quod intelligentiae superiores creant animas rationales sine motu coeli; intelligentiae autem inferiores creant vegetativam et sensitivam motu coeli mediante [m58]〔中世原典集成13による。「 」内以下同。〕上位なる諸知性は天空の運動なしに理性魂の数々をつくるが、下位なる諸知性は天空の運動によって自育(植物)魂と可感(動物)魂をつくる。
38. 「神は天体を媒介とすることなしには第一質料を造ることができなかった。」quod Deus non potuit fecisse primam materiam, nisi mediante corpore coelesti [m107]。神は天体によらずして第一質料をつくることができなかった。
61. 「神はもろもろの相反することを行うことができるが、それは場所において相違する天体を媒介としてのことである。」quod Deus possit agere contraria, hoc est, mediante corpore coelesti, quod est diversum in ubi. [m70]。神は逆性の諸物をなすことができる。つまり天体の場所的変移によって。
65. 「神または知性実体は、天体を媒介としてのみ睡眠中の人間の霊魂に知識を注ぎ込む。」quod Deus vel intelligentia non infundit scientiam animae humanae in somno, nisi mediante corpore coelesti [m176]。神もしくは知性は、ただ天体によるのでなくしては、人が眠っているうちに魂に知識を送り届けることはない。。
74. 「天を動かす知性実体は理性的霊魂に影響する。ちょうど天が人間の身体の内に影響するように。」quod intelligentia motrix coeli influit in animam rationalem, sicut corpus coeli influit in corpus humanum [m76]。天空をうごく知性は理性魂に注入(影響)をもたらす。それはちょうど天空の諸物体が人の体躯に注入(影響)をもたらすのと同様である。
92. 「天体は霊魂という内的原理によって動かされている。そして、ちょうど動物と同じように、それは霊魂と欲求能力によって動いている。なぜなら、動物は欲求することで動くが、天体もまた同様だからである。」quod corpora coelestia moventur a principio intrinseco, quod est anima; et quod moventur per animam et per virtutem appetitivam, sicut animal. Sicut enim animal appetens movetur, ita et coelum [m73]。諸天体は固有の原理つまり魂によって動かされている。魂によって動かされる諸物は動物のように嗜好(欲求)の力能(徳)によって動いている。
94. 「二つのものが永遠的原理である。すなわち、天体とその霊魂である。」quod duo sunt principia aeterna, scilicet corpus coeli, et anima eius [m32]。そこには二つの永遠の原理がある。つまり天空の物体(体躯)とその魂と。
102. 「天の霊魂は知性実体であり、そして耳と目が感覚能力の器官であるように、緒天球は知性実体の道具ではなく、器官である。」quod anima coeli est intelligentia, et orbes coelestes non sunt instrumenta intelligentiarum sed organa, sicut auris et oculis sunt organa virtutis sensitivae [m75]。天空の魂とは知性であり、天の諸円輪は知性の道具ではなく、器官(組織)である。
112. 「上位の知性実体は、下位の知性実体に影響を及ぼす。それはちょうど、ある霊魂が他の霊魂に、さらにまた感覚的霊魂にさえも影響を及ぼし、またある魔術師がこのような影響力を通じて、見つめるだけで駱駝を穴に投げ落とすのと同様である。」quod intelligentiae superiores imprimunt in inferiores, sicut anima una imprimit in aliam, et etiam in animam sensitivam; et per talem impressionem incantator aliquis proiicit camelum in foveam solo visu [m63]。上位なる諸知性は下位なる諸知性に捺印するが、それはちょうどある魂が他の魂に(捺印するのと同じである)...その純然たる一瞥(視線)によって蠱惑の捺印がなされると、駱駝が緯度に落ちる[7]。
132. 「天球が、健康にするように意志する医者の意志の原因である。」quod orbis est causa volntatis medici ut sanet [m155]天空は自然学者を癒す意志を原因する。
133. 「意志と知性はそれ自身によってではなく、恒久的な原因、すなわち天体によって現実態において動かされる。」quod voluntas et intellectus non moventur in actu per se, sed per causam sempiternam, scilicet corpora coelestia [m153]。意志と知性は自らうごく(はたらく)ことはなく、永遠なる諸原因つまり諸天体によってうごく。
142. 「もろもろの出来事の必然性は、場所の多様性から得られる。」quod ex diversitate locorum acquiruntur necessitates eventuum [m103]。場所の相違からさまざまなできごとの必然性(必要性)が由来する。
143. 「天上の〔星々の〕さまざまなしるしによって、人々のさまざまな状況が、現世的な事柄についても、また霊的な事柄についても示される。」quod ex diversis signis coeli signatur diversae conditiones in hominibus tam donorum spiritualium, quam rerum temporalium [m104]。天空のさまざまな星座(しるし)は人のさまざまな条件を意味する。これは霊の賜の、またつかの間の事物(被造物)のしるしでもある。
150. 「いかなる問題であろうと、それについて確実性を得るためには、人は権威で満足すべきではない。」quod homo non debet esse contentus auctoritate ad habendum certitudinem alicuius quaestionis [m5]。人はどの地点(時点)にあっても確実さ(確証)を得るために権威だけでは満足できない。
152. 「神学者の論説は神話にもとづいている。」quod sermones theologi fundati sunt in fabulis [m183]。神学の発語(語調)は寓話に基礎をもっている。
154. 「世界の中で知恵ある者は哲学者のみである。」quod sapientes mundi sunt philosophi tantum [m2]。哲学(自然学)者たちはこの世界で唯一の賢者である。
161. 「自由な意志に対する星の影響は、秘められたものである。」quod effectus stellarum super liberum arbitrium sunt occulti [m156]。諸星辰の自由意志への注入(影響)は隠秘(オカルト)である。
162. 「われわれの意志は天体の権能に服している」quod voluntas nostra subiacet potestati corporum coelestium [m154]。われわれの意志は諸天体の力に従属する(の主題(主体)である)。
163. 「意志は、理性によって固く信じられたものを必然的に追及する。そして理性が命じたものを避けることはできない。しかし、このような必然的規定は強制ではなく、意志の自然本性なのである。」quod voluntas necessario prosequitur, quod firmiter creditum est a ratione; et quod non potest abstinere ab eo, quod ratio dictat. Haec autem necessitatio non est coactio, sed natura voluntatis [m163]。必然の意志は、理拠が確と得心する賢明なるものの軌跡に従う(を追う)。またそれは理拠が命じる(口授する)うごき(はたらき)の軌跡から逸れることができない。この必然は強制ではなく、意志の自然本性である。
164. 「人間は、そのすべての好意において欲求に従い,しかも常により強い欲求に従う(もしこれが、動かすことにおける強さとして理解されるなら、誤りである)。」quod homo in omnibus actionibus suis sequitur appetitum, et semper maiorem, -- Error, si intelligatur de maiori in movendo [m158]。人のうごき(はたらき)のすべては嗜好に従い、常に大きくなっていく。
167.「ある種のしるしによって人間の意図やその変化が知られ、またその意図が実行されるべきであるかどうかが知られる。またそのような徴候を通して、外国の出来事や、人々が捕虜となったり、捕虜が釈放されたりといったことや、人々が将来知者となるか盗賊となるか、といったことが知られる。」quod quibusdam signis sciuntur hominum intentiones et mutationes intentionum, et an illae intentiones perficiendae sint, et quod per tales figuras scciuntur eventus peregrinorum, captivatio hominum, solutio captivorum, et an futuri sint scientes an latrones.[m178]。 ある星座(しるし)により人の意図と心変りが起こるとともに、その意図が成就するかどうかが知られる。またそのような形象から旅の成果、人の捕囚、捕縛からの解放、あるいは賢者となるか悪党となるかが知られる。
174. 「キリスト教の中には、他の宗教と同じように神話や虚偽がある。」quod fabulae et falsa sunt in lege christiana, sicut in aliis [m181]。キリスト教文書(聖書)にも他の文書同様、寓話や偽の叙述がある。
175. 「キリスト教は、学ぶことの妨げになる。」quod lex christiana impedit addiscere [m180]。キリスト教は(科学)知識を妨げる。
189. 「知性実体はもろもろの形相で満ちているので、諸々の天体をいわば道具とし、これらを通してそのような形相を質料の内に印刻する。」quod cum intelligentia sit plena formis, imprimit illas formas in materiam per corpora coelestia tamquam per instrumenta. [m61]。知性が完遂すると(諸形相で満たされると)、諸天体を道具としてこれらの形相が質料の上に捺印される[8]。
195. 「宇宙の設定された状態(dispositio universi)である運命は、神の予知から直接的にではなく、上位の物体の運動を媒介として生起する。しかもそのような運命は、下位のものに対しては必然を課さない。なぜなら、下位のものは相反するさまざまな仕方で存在しうるからである。むしろ、運命が必然を課すのは上位のものに対してである。」quod fatum, quod est dispositio universi, procedit ex providentia divina non immediate, sed mediante motu corporum superiorum; et quod istud fatum non imponit necessitatem inferioribus, quia habent contrarietatem, sed superioribus. [m94]。万有宇宙の配列は神的な摂理(神慮)から発するが、その直接のはたらきによるのではなく上位なる諸体躯(天体)の運動による。この宿命も、下位なる諸物に必然的に課されるのではない。なぜならそこ(下位なる諸物)には逆性があるから。しかし上位なる諸物にとってはそれは必然である[9]。
206. 「彼は、健康も病も、生も死も、星々の位置と運命のまなざしによると考える。すなわち、もし運命が彼を見つめるなら彼は生きるであろうし、もし見つめないならば彼は死ぬであろう、と言う。」quod sanitatem, infirmitatem, vitam et mortem attribuit positioni siderum et aspectui fortunae, dicens quod si aspexerit eum fortuna, vivet; si non aspexerit, morietur. [m106]。健康、病気、生命と死を諸星辰の位置と幸運の相(箭)に帰属する者は、幸運が彼を見ている(かかわっている)なら彼は生きるが、そうでなければ彼は死ぬだろう、と言う。
207. 「人間の誕生のとき、身体の内に、したがってまた身体に続いて生じる魂の内に、上位と下位の諸原因の配列にもとづいて、特定の種類の行為や出来事へと傾向づける体制が人間に内在するようになる(これは、自然的出来事に関する限りのこととして、また〔必然的決定という詩方ではなく、単なる〕態勢づけという仕方で定められることとして理解されるのでないならば、誤りである)。」quod, in hora generationis hominis in corpore suo et per consequens in anima, quae sequitur corpus, ex ordine causarum superiorum et inferiorum inest homini dispositio inclinans ad tales actiones vel eventus. -- Error, nisi intelligatur de eventibus naturalibus, et per viam dispositionis, [m105]。人の誕生の時間、人の体躯、そして体躯につづく人のこころ(メンテ)は、上位および下位の諸原因の序列秩序(指示)によって人のうちに存し、彼の行動およびその結果へと傾斜させる。これは過誤である。これは自然本性的な帰結であり、その配置(下準備)によるものである[10]。

本書のライムンドゥス・ルルスの章で彼が1297年に著した論考について語ることになる。この論考で彼は1277年の断罪箇条の幾つかを扱っている。
〔その他、後のパリでの魔術に対するうごき〕1277年の断罪と絡めて、土占いにかかわるブラバンのシゲルスの見解、降霊術(ネグロマンツィア)の諸著、その他霊の召喚を含む諸著が、権威筋からするパリでの魔術研究あるいは実践を挫こうとする後の二論考で触れられている。その一つは、すでにロジャー・ベイコンの章で示唆した1292年5月25日のフランシスコ会憲章で、パリにいる会派の学生たちに送った金銭を妙な(好奇の)書物を買ったり書写したりするために費やすことを禁じている[11]。いずれそのような規則が会派内で必要であったということに驚くというよりも、なにか痛ましさを感じざるを得ない。もう一つは教皇ヨハネス二十二世がパリ司教グリエルムスに宛てた1318年あるいは1319年4月3日の書簡で、彼の寄進に謝意を述べるとともにパリ大学の状況改善、特に教区から教皇が後に犯罪と記すことになる「降霊術師、予言者、毒殺者その他がこの種の咎められるべき業の数々にかかわること」[12]がなくなるようにと求めている。ここには星学者(占星術師)たちおよび彼らの著作が迷信的な業あるいは黒魔術を譴責するこれら二つの文書に含まれていたのかどうか確証するしるしはなにもない。

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[1] (708-1)Spec. astron., cap.12 (Borgnet, X, 643)
[2] (708-2)In Revue Thomiste, V (1897), 95; cit.by Grabman (1916), p.163.
[3] (708-3)Mandonnet, Revue Neo-Scolastique, XVII (1910), 318は、『鑑』が1270年以降に著されたことを示そうとしている。『鑑』の問題の一節は、アクィナスから書写されたものに他ならない。というのも『形而上学』に13巻、14巻が存するということはアクィナス以外には知らなかったものと思われるから。とはいえ、マンドネが1256年に書かれたものとしているアルベルトゥスの『註解』にはこれらが含まれているのだが。
[4] (708-4)Grabmann (1916), pp.163-9. この見解はさほど説得的なものとは思われない。『形而上学』全14巻は十三世紀のラテン語写本カタログにも記載がある。S. Marco X, 57, fols.1-75 de metaphysica libri quatuordecim; Additional 17345(十三世紀後半)。旧翻訳書カタログではトマス・カンタンプレThomas of Cantimpre訳とされている。
[5] Mandonnet, Siger de Brabant et l’averroisme latin au XIIIe siecle, Fribourg 1899, cap.9.
[6] 「すべての天体は三万六千年で同じ点に戻るのであるが、その時には現在と同じ結果が再び繰り返されるであろう。」八木雄二・矢玉俊彦訳、中世思想原典集成13所収
[7] この見解は1277年に断罪されたものであり、この蠱惑力によって人は井戸の中に投じられ、駱駝は熱湯の中に身を投げる(Differentia 135)、というアバノのペトルスの『符合Conciliator(1303)から採られたものではない。先代のパリ司教オーヴェルニュのグリエルムスもまた1240年に「諸過誤」を断罪しており、ただ落下を想像するだけで駱駝から落ちる人について『万有宇宙についてDe universo(II, iii, 16, ed. 1591, p.986)で語っている。
[8] (712-1)これは「天の諸円輪は知性の道具ではなく、器官(組織)である」という102項に矛盾するようにみえる。
[9] (712-2)この見解はボエチウスのものでもあり、その他宿命を論じた者たちも類同であった。
[10] (712-3)210のラテン語テクストはChartularium Universitatis Parisiensis, I, 543ss.に見つかる。
[11] (712-4)Chartularium Universitatis Parisiensis, II, 56-7.
[12] (713-1)Chart. Univ. Paris, II, 229.


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