2019年5月11日ハロー言葉vol.3での朗読

2019年の朗読ですが、noteにも記録として残すことにしました。
悩みに悩んだ末に生まれた言葉でした。


5月11日の成宮アイコさんのハロー言葉vol.3で朗読しました。その場で自分が発達障害であることを初めてカミングアウトしました。

成宮アイコさんと知り合ったのは、もう14年前になります。
それ以来ずっとアイコちゃんの朗読は聞いてきたんですが、僕の朗読をアイコちゃんに聞いてもらうというのは初めてでした。
人前に出るのは恥ずかしいことなのですが、前から出てほしいと言われていたので、人前に出るのは最初で最後のつもりで、初めて朗読をするということになりました。
今まで誰にも話したことのないような話だったんですが、初めて話すならこの場だと思い、話すことにしました。
「気づいて欲しかった」のフレーズで始まる3分間の朗読ということだったんですが、事前に用意した内容は3分ではとても収まりきらない分量になってしまったので、大幅に短縮して実際の朗読に臨みました。
せっかく書いたので、朗読の原案として用意した文章をここで公開します。
タイトルは「発達障害の愛」としました。

発達障害の愛

気づいて欲しかったのは、あなたが希望の光だったということ。

これは人前で初めて言うことですが、僕は発達障害です。
いわゆる自閉スペクトラム症「ASD」、アスペルガーとも言われますが、僕はその当事者です。

人とうまく付き合えない。会話がうまくできない。人の気持ちを読み取ることがうまくできない。自分の気持ちを人に伝えることもうまくできない。

そういう特性のために、今までずっと苦しい思いをしてきました。
でもそれよりも辛かったのは、自分が発達障害であることが、自分でもわからなかったことです。
自分が発達障害だと気づいたのは、実はつい最近のことなのです。

子どもの頃から人付き合いは苦手で、学校の中で人と会話するとか、友達を作るというような、誰もが当たり前のようにやっていることが、自分にだけはどうしてもうまくできませんでした。
人とちょっと違うところもあったのでしょう。いじめの対象にされることもありました。人と違う感じのするところをからかわれるとか、馬鹿にされるとか、気持ち悪がられるとか、そういうようなことは、大人になってからもありました。もう思い出したくないような嫌な記憶も山ほどあります。

どうして僕は、みんなと同じようにはできないんだろう。
本当は僕も人と仲良くなりたいのに、本当は僕も人と話したいのに、なんでうまくできないんだろう。

高校生くらいになるといよいよ人間関係を作ることが困難になり、どれだけ頑張って努力をしてもうまくできなくて、ものすごいストレスで、学校から帰ると全てのエネルギーを使い果たして倒れ込んでいました。

そしてある時、突然、全く何も手につかなくなってしまいました。
勉強しようと思っても、何をしようとしても、自分の身体が自分の思い通りに動かない。自分がどうなってしまったのか、全くわかりませんでした。

そして僕はひきこもりになりました。

何もできない自分のことを自分で責め続け、ますます何もできなくなる。
どんどん鬱状態になっていって、死ぬことばかりを考えるようになっていきました。
実際には死ぬ勇気もなくて、食べ物もろくに食べず、風呂にも入らず、髪の毛もヒゲも伸びっぱなしで、どんどん自分の姿が醜くなっていって、身体からは悪臭を放ち、人目が怖くて外にも出られず、生きることも死ぬこともできないまま、なすすべもなく横たわっている。

一体何のために、生まれてきたというのだろう。
生まれてきたこと自体が間違いだったのではないか。
こんなにもダメになっているのは世界中で自分だけなのではないか。
ただ生きてるだけで、何の役にも立っていない、自分みたいな人間は生きていてはいけないんじゃないか。
なんでこうなってしまったのかも、どうしたらいいのかも全くわからない。自分の力ではどうすることもできない。
どうやって死のうかということばかりを考えていました。
ずっと一人でした。

そんなひきこもりの間、何か手がかりはないかと本ばかりを読んで過ごすうちに、ひきこもり、いじめ、不登校、リストカット、自殺未遂、摂食障害、虐待、精神疾患、依存症など、この世の中で生きづらい思いをしている人たちの存在を知りました。

生きていてもいいことなんか何もない。
もう生きていても意味がない。
こんなに辛いのに、なんで生きていなくちゃいけないの?
こんなことならもう早く死にたいよ。

そこに並んでいたのは、そんな彼らの悲痛な言葉でした。
それは僕と同じ思いでした。

辛い思いをしていればいるほど、その言葉は力を持ち、その人の命は強い光を放って見えました。
苦しんでいるのは自分だけではないんだ。自分と同じように苦しんでいる人たちのことを知り、仲間を見つけたような気がしました。
実際に会って話をしてみたい、お互いの生きづらさについて語り合ってみたい、こういう人たちとなら共に生きていきたい、そう思うようになりました。

それは絶望のどん底に沈んでいた僕の人生に差し込んできた一筋の光でした。
どこの誰かもわからない、生きづらさを抱えた人たちが、僕を照らしてくれる光だったのです。

いったいなんで、この子たちはこんなに苦しまなければならないんだろう。
ただ生まれてきただけなのに、どうしてこんな思いをしなければならないんだろう。
いったい何のために生まれてきたというのだろう。

あなたは何も悪くないんだよ。
自分で自分を責めなくていいんだよ。
もう十分に苦しんだんだから、もうこれ以上苦しむことはないんだよ。

何かしてあげられるわけではないけれど、実際に会うことができたら、ただそんな言葉をかけてあげたい。

そんなことを思いながら、一人で涙を流していました。

その後、生きづらさをテーマにしたイベントなどに行くようになり、生きづらさを抱えた人たちに、実際に会うことができました。みんな悩みや苦しみを抱えながらも懸命に日々を生きている人たちでした。僕は彼らにどんどん魅かれていきました。

この子たちの悩み、苦しみ、痛み、悲しみを全て消し去ってあげることができたらどれだけいいか、本気で思ったものでした。

彼らとともになら助け合って生きていきたいと思いました。

でも、実際にはそんなにうまくはいきませんでした。

仲良くなったと思っても関係が長続きしなかったり、良かれと思ってしたことで逆に人を傷つけたり、ずっと友達でいられると思っていた人と連絡もつかなくなってしまったり、本当は生きづらい人たちのために何かしてあげたかったのに、自分の力では何もすることはできなかった。
本当は、生きづらい人たちの気持ちをわかってあげられるような人間になりたかった。
どんな人とでも分け隔てなく付き合えるような人間になりたかった。
生きづらさに寄り添ってあげられるような優しい人間になりたかった。

それなのに、結局何をやってもうまくいかない。やっぱり自分には何もできないのかな。申し訳ないような、後ろめたいような、そんな思いを抱えながら、ただ日々を過ごしていました。

そんな僕にも、想いを寄せる人ができました。
その人も、過去に辛い経験をしてきていて、トラウマを抱えていて、今も生きづらい思いをしている人でした。
イベントで知り合って、何度も顔を合わせ、話をするようになり、一緒に遊びにも行くようになって、僕はその人に徐々に好意を持つようになりました。

今度こそ良い関係を築きたい。この子のために何かしてあげたい。心の傷を癒してあげたい。ずっと一緒に生きていきたい。
そして付き合いたいと思って告白をしました。

でも、結ばれることはありませんでした。
その人とはすでに良い関係を築けていると思い込んでいました。気持ちを分かり合えているつもりになっていました。でもそれは僕の勘違いでした。僕は、その人と心から打ち解けあっている関係がまだ築けていないことに全く気づいていませんでした。

僕はその人のことを本当に愛していました。
それなのに、自分が本当に大切だと思っている人との関係すら、うまく作ることができない。
なんでこんなふうになってしまうんだろう。

結局僕には何もできないのかな。僕なんか生きてる意味があるのかな。

絶望のどん底に沈んで、悩みに悩んで考え抜いた末にたどり着いた答えは、「ああ、やっぱり僕は発達障害だったんだ」というものでした。
僕は自分の生きづらさの正体に、ようやく気づいたのです。

人とうまく付き合えない。会話がうまくできない。人の気持ちを読み取ることがうまくできない。自分の気持ちを人に伝えることもうまくできない。
そして、なぜ自分がそれをできないのかも今まで全くわかりませんでした。

それは僕が発達障害だったからでした。

僕の大切に思っていた人は、僕に発達障害であることを気づかせてくれるために、僕の前に現れてくれたんだと思っています。

そして僕はまた一人になりました。

本当は人と話したいのに話せない。伝えたい気持ちはあるのに伝えられない。
それでも僕は自分なりに一生懸命生きてきました。
何もうまくはできなかったけれど、それは自分の発達障害に気づくために必要な時間だったのかもしれないなと思います。

本当は僕も、人と仲良くなりたかった。
本当は僕も、人とわかり合いたかった。
本当は僕も、人のために役に立ちたかった。
本当は僕も、自分と同じように生きづらさを抱える人たちの気持ちに寄り添ってあげられるような人間になりたかった。
本当は僕も、人を愛して生きていきたかった。

僕には何もできなかったけれど、その気持ちだけは本当のものだったのです。

そういう気持ちを持たせてくれたのは、どこの誰かもわからない、もしかしたら今はこの世にいるかどうかすらもわからない、生きづらさを抱えた人たちでした。
僕に発達障害だと気づかせてくれた、大切なあの人も、生きづらさを抱えた人でした。

生きることを諦めかけていた僕に、もう一度生きていきたいと思わせてくれたのは彼らでした。
たとえ幻想だったとしても、僕は彼らに生きる力を与えてもらったのです。

ひきこもり、いじめ、不登校、リストカット、自殺未遂、摂食障害、虐待、精神疾患、今も生きづらい思いをしている人がたくさんいると思います。

それはほんの少し前の僕の姿であり、発達障害で苦しむ今の僕の姿でもあります。

生きづらいあなたの悩みは、僕の悩みです。
生きづらいあなたの苦しみは、僕の苦しみです。
生きづらいあなたの痛みは、僕の痛みです。
生きづらいあなたの悲しみは、僕の悲しみです。
あなたの生きづらさは、僕の生きづらさです。
何もわかっていないくせにと思われても、せめてそう言わせてほしいと思うのです。

人の気持ちを理解するのが難しい発達障害の僕にとっては、人と人との気持ちが通じ合うというのは、奇跡のように見えます。人と人の心が通じ合うこの奇跡のことを、人は幸せと呼んでいるんだと思います。

どんな人の人生も、他の人の人生に痕跡を残します。それこそが生きる意味なのかもしれません。

言葉というものは、ときに頼りなく、はかなく消えゆくものかもしれません。
しかし、最後の力を振り絞って必死に出されたその言葉は、見も知らぬ人の元に届き、その命の光を、他の人の命に届けてくれるものにもなりうるのです。

ひきこもりで苦しんだあなたの命も、摂食障害で苦しんだあなたの命も、精神疾患で苦しんだあなたの命も、虐待で苦しんだあなたの命も、そのことを思ってたった一人で涙を流したあの時の僕の命も、絶望のどん底に沈んでもう死ぬしかないと思いつめたその瞬間だって、その命は強い光を放っていたはずです。

今も生きづらさを抱える人たちに声をかけるとしたら、
「今まで本当によく頑張って生きてきたね」
と、ただ一言だけ、そう言いたいです。

役に立っているとか、いないとか、そんなことは関係ない。

ただ生きているだけで、あなたの命は、この世の中を照らす光なのです。

今日も僕らはそれぞれの場所で、それぞれの形で、それぞれの思いを抱えながら、それぞれの光を放っているんだと思います。

あなたの光に照らされて、僕はこれまで生きてこられました。

僕には特別なことは何もできないし、何もわからない。

僕は発達障害で、今も生きづらさを抱えたただの一人の人間です。

それでも僕は、あなたのために、これからもただ生きていきます。

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