※補足 つるの剛士氏の外国人差別ツイートについて

つるの剛士氏の外国人差別に当たるツイートの問題をきっかけにして、自分は直観的に差別だと思うことでも、これの何が問題なのかを人に伝えることは意外と難しいのではないかと、改めて考えることになりました。

しかし、本当に分からないという人にも理解を求める作業は当然していかなければなりません。

それについて、改めて考えたことを補論として書いてみようと思いました。

補助線として、差別と不平等の違いについて考えてみましょう。
「富の不平等」「所得の不平等」とは言っても、「富の差別」「所得の差別」とは言いません。
「差別的な発言」とは言っても、「不平等な発言」とは言いません。なぜか。

差別と不平等という言葉は重なるところはあってもその意味するところは違うからです。

不平等とは、単純に「同じではない状態」を指す言葉だとしましょう。
差別という言葉で意味するところは、それだけではないように思われます。

ここでは差別とは、「蔑視や侮蔑などの嫌悪感情に基づく不当な取り扱い」のことだと定義してみましょう。
そうすると「差別する」とは、「悪感情に基づく攻撃」と言い換えられると思います。
「差別的な発言」とは言っても「不平等な発言」とは言わないというのが分かると思います。

そこでつるの氏の発言について改めて考えてみます。
「窃盗の被害に遭った」「犯人はおそらく近くの工事の外国人」という発言はどうか。

そこには「外国人は犯罪を犯しそうな奴らだ」という蔑視の感情を助長するニュアンスを含む表現であることが明らかです。

たとえ「犯罪の被害に遭った」「犯人は外国人だった」ということが事実だったとしても、そのことを取り立てて「犯人はおそらく外国人だ」という発言することが、外国人に対してどういう印象を世の中に植え付けるか、それを聞いた多くの「外国人」たちにどのような負の影響を与えるか、それを考えてみれば件の発言が「差別発言」であることは明らかでしょう。

注意すべきは、発言した当人に、差別しようという意図があったかどうかは関係ないということです。

よって、当人に自覚のない差別的な表現や行為というのは世の中には多々あるはずだと言えます。
それは、気づき次第取り除いていかなければなりません。差別とは、悪感情を煽る行為なので、特定の攻撃対象にされた人々にとっては、潜在的なリスクとして残り続けるからです。

差別の芽は放置しておいては、のちに深刻な実害を招くことは歴史の教訓から明らかです。

差別の何が問題なのか、それを理解していない人にどう説明すれば理解を得られるのか、改めて考えてみると意外と自分でもしっかりと理解していなかったのではないかと考えさせられます。

そのたびにより深く考え、答えを探し求めることが、差別の問題を克服していくために必要なプロセスなのではないでしょうか。

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