かずかずのざわめきの、至る所にある。

1

 ニワトリの頭部を模した防菌用マスクは、その先端、要するに〈クチバシ〉の内部にハーブを詰めることで外気の中に含まれている目に見えない敵を口に届く前に死滅させるねらいっだったから、町中全く、さながら真夏の鶏舎の中みたくひどい有様で、鼻はまるでそんなものが我々は猿の頃から所持していなかったように役立たずになったので、鶏糞よりもキツい香水が幅を利かせた通りは日に必ず何人かは真ッ青な手、首を曝した〈鶏頭〉が転がっていたが、内ひとりくらいはまちがいなく窒息死だと喧しかった。街中至る所に張り出された広告は鶏の頭のマスクかでなければ香水かで謳い文句はどちらも決まって「これを身に着けて街に繰り出そう! 新しい生活を楽しもう!!」と言ったものだった。じっさい、「新しい生活」なんてものは言葉の綾でも何んでもなく、〈鶏頭〉たちはまちがいなくこの星の自然史の中で二度目の食物連鎖の頂点に立つことができた鳥類だった。問題は悪性の菌による病にちがいなかったが、今や〈鶏頭〉たちの関心は全く別の所に向けられていたのだ。〈鶏頭〉たちは新しい帝国の建設にやっきになっていた。感染症による死者は脅威にはちがいないが、取るに足らないことだ、そう彼らは思っていなかったが信じていた。別に死者が数えられなかった訳ではない。数えられてしかいなかったのだ。〈鶏頭〉たちは日々更新される数字が何の意味をもつのか関心を持たなくなっていたし、今や理解すらしていなかっただろう。数字を書き換えている連中も、この報告がどんな意義を持つのか知っているものは誰ひとりとして居ない。彼らは職務に忠実なだけだ、そしてこの新しい生活の中では、職務に忠実なことこそが唯一の美徳である。


2

 飛沫が拡散するにつれてその中で増えたウィルスは人から人へと渡りをする。花粉が蜜蜂の脚にまつわりついているのを想像している? わたしたちは、いま、かれらたちへと伝わっていくだろうか、そう。例えば……とわたしたちは送る、草の実が獣の体毛へくっ付いて方々へ散っていく所を今まさに、でもね、と、わたしたちは、きみに、きみへと言葉を感染したいんだけど、きみたちへと……、と言って、でもその伝播は誰の意思でもない、獣の意思でも無くて、花粉の意思ではないし、蜜蜂の意志でも、草の実の意思でもない、花の意思でもないよね? 風の意思、土の意思だろうか、と彼たちがざわざわと喋り始めるから、きっときみたちはもうずいぶん遠くまで運ばれてしまったんだって――わたしたちがね、――思うんじゃないか。でもそれは違うんで、「遠く」ってさっき、(いま?)言ったのはきみたちに伝えたいからだけど、でもそうやって意思とか、はじまりとか、きみが思っている君自身なんてどこにも無いんだって、だからどこまで行っても、どこに居ても、そこでしかない。今居るわたしたちがきみ(たち)だった。いまっっくしゅんッ。(終わり)


3

 どこかから始まった漣が「ここ」まで寄って来てるって思ってるって言ったよね、あたしたちは足元に砂粒を一つ一つ数え上げて切りがないのを「思い出」すまでにも、漣は足元の砂を洗って流す、幾星霜の年を経て「ここ」に磨かれた、「砂」の一つぶ一つぶが、あたしたちの、ひと掬いひと掬いの掌の中できしきしって音を鳴らして、きしきしって空気を軋まして、うち震わせた漣はどこまで、「いつ」まで寄せて往くんだろうって、あたしたちに、「どこ」から来はじめて居るのも、「何も」知らないで居る処で居る処なのに、そこかしこに知らないで散っている。散っていく一粒一粒はきらきらとしていて、空気の粒子、声の粒子、漣の襞、太古に朽ちてしまった鮫の分子の、寄せて砕ける潮の一片一片も、夜空を、とくに月の見えない夜の天を覗くと「知っている、」わたしたちの一粒一粒のミルクの油分みたいなほしくずと同じだって、相同しているってわたしたちは知っていたことを、いま、わたしたちに教える、そういう運動が、いまの「こうして、」粒子を形づくっていってきてあるんだって、わたしたちに言ってて、ママは(お母さん?)男の人と出会うずっと前の昔からそこから産まれたわたしたちになることをわたしたちは伝えることができていたのだし、渡り鳥たちも、回遊する海の中のものたちとも相同しているそれは。
 ふかく深呼吸して、ふかくすることが大事で、拡散したものたちを、そんな事無理だって、散りぢりになっていなくなっていった神さまたちの夥しい「かたち」を、知っているよ、分かっているよ、だけど、だからこそふかくすることが大事なんだ。筋膜を押し拡げて。肋骨を解放させて。太古の鳥の様になるのは、一概には嘘とは言えないな夥しい言葉を。


4

 散りぢりになった言葉を、と言った。また集めているだけです、と。集めなおしているだけなんだ、どうか、もう、と言い、あなたたちは、もろもろの手を母親の抱擁をほしがる子どもみたいに差し伸べた指先は細かく震えていた。爪は割れたり伸びたりしていた。爪先には泥や苔が詰まっていた、震えていた。詩人と、と続けた、そんなふうに彼らを呼ばないで欲しい、と。
 風がどこからかびょおびょおと吹いて来る吹き上げられた砂や何かのカサカサとした欠片みたいなものたちを、君たちが集めているのだと、集め直しているのだと、埃っぽい匂いが立ち込める中で、空気は息が詰まりそうにあたたかだったが、時々、針で刺されるような冷気が喉の深い所へと入り込んでくることがあった。言葉たちのそのもののように彼と彼たちには、むしろ、いや、言葉たちそのものなのだと、感じないで、きっとあなたたちは分かり切った言葉でそんな事を喋る。
 食事をしているのだと彼と彼らたちはついさっき、もう何年も前になるが、教えてくれたはずだった、吐いていた。飛び散ったものは、あなたたちの口から零れ、あなたたちでなくなった、それはもうない、きみたちは、あなたたちはそれはもう欠片で、欠片で、言葉、その言葉で、その言葉だと、そのものだからこそ、集め直しているのだとあなたたちは言う度に、あなたたちが教えた、きみたちを、あなたたちはいま、今だ、失って。集め直しているだけなんて嘯く。拾って、詩人なんてないと落としたものを踏み歩いた。そうやって飛散してガラガラになったものたちをただ喋っているだけなんですと「今しがた」掻き掘ったばっかりの穴の中へ。


5

 ついに君は言わなかった。夜はずいぶんと前から明けていない、私は燠火になった焚火の前には居らず、さっきまでうずくまっていた影も無く、赫い光がチリチリと音も無かった。
 赤赤と照らされるはずだった君の横顔はなく、古い写真の湖底みたいな深い灰色の瞳も今ここでは無い、別の場所で別の光を視ているかも知れないが眠っている君は何も無い暗闇の空には新月が懸かっていたが、夥しい星が散りばめている銀河は、しかし視ることもできないような燦燦とした大都会の一隅の、もう沢山の人が訪れなく無って何十年と経つ、灰色のビジネス・ホテルの一部屋だった。
 君は眠っているのを知ら無い君が、夢を見無いで、小さな裂け目の様に口を開けた奥は虚無みたいに光を吸って、雨上がりの池のようにぼんやりと明るいここの天空に拡散して乱反射する分子や塵を又吐き出しているかも知れない、知らなかった。
 燠火の前には誰も居らず、かつて煌煌と火の粉を散らしていた火焔の名残が、私のぎこちなかった影と、君の来なかった兆しとが、ただ赤赤と照らされることなく無かった。夜はもうしばらくずいぶんと明けて経つが、新月の懸かった空は出来たての氷のように青青と透き通った陽光の中で失われてしまった私だけが視ていた。


6

 幾重にも捻ったリボンのようなものが空に、幾筋も浮かんでいた。どうやらそれはそれぞれが皆、波の一筋のようだった。海の漣の一筋一筋が、海水から切り離されて私の都市の上空に浮かべているらしい、街中の人々は誰もが皆不安げに空に一瞥をくれているかと思えば、そんな事はない、唯今日のお天気を気にしているだけだ。昨日のお天気を気にしていたみたいに。
 波はひらひらとその場のその宙空でゆるやかに回転しているみたいに見えた。実際は存在しない海洋の沖から地球の回転によって不断に送られてくる無数の漣を反映してただそのように見えているに過ぎない。陽はもうとっくに落ちてしまった。私の都市はネオンサイン彩られてまるでサンゴ礁の様だなんて陳腐な喩えは今時場末のキャバ嬢だって使わないだろう、と言うと彼女たちはせせら笑った。ともかく私の都市の夜空はその為に雨後の池沼のようにぼんやりと明るく煙っていて、波はそんな霧のような乱反射の中で銀テープのようにキラキラと閃いているのは何とも幻想的で素敵だった。
 二十四時間営業のファミレスでドリンクバーと安物煙草で粘っているとこの孤独の中では感覚は研ぎ澄まされるというよりはむしろ一層鈍って来るみたいだ。まるでこのレストランのこの席の、このまずいコーヒーの、この薄汚れてベタつくテーブルとイス、煙草の煙なのか店内の埃なのかよくわからない靄の中で、眠たそうな店員のおしゃべりと耳たぶのピアスの跡とかの、全てが一錠の抗鬱剤のように思えてくるんだよね、と斜向かいの席のアベックの男の方はさっきからしきりに貧乏ゆすりしながら女へ喋っていたけど、関心がないのかさっきからずっとスマホを弄っている表情はわからないが、男の方は気にも留めずにやはりずっと熱心そうに喋っているのでやっぱり女は聴いているのかも知れなかった。スマホを弄りながら。


7

 くり返し寄せては返す言葉の漣の中で彼たちは育ったので、非常に耳が良い。
 拡散して最後には消えてしまう音の乱反射の渦中では、しかし、脳が弾け飛びそうなノイズが彼たちを襲うので都市はどこに居てもとてもまともに考えることはおろか歩くことさえままならないからだ。
「やめてくれよ!」と彼たちはきっと叫ぶが、その言葉は都市の雑踏とか、絶え間なく閃く言葉たちの中にあっては、あまりにも小さいので誰も注意を傾けない、しまいには彼たちそのものが自分たちの言葉の振動に圧倒されて過呼吸になってしまうだろうと言うくらいなのだ、そう言って両手をうつむいて、開いたり閉じたりしている、緊張した時はとりあえずこうしているのが一番良く落ちつくだろう、でもそんな事ばかりで良いのだろうか? この先のことは分からないけど、彼たちにとっては分からないなりにも重大な関心事らしく(当然だ!)彼たちはしきりに握ったり開いたりしながら、ぶつぶつと独り言ちている。
「第一……まず問題は……」
 ねえ! ペンを貸してくれない? えんぴつでもいいけど! そう言って怒鳴った自分自身の声に驚きながらクシャクシャになった紙切れを胸ポケットから出すと熱心に何事か書き付けている。喋るよりもこうした方が確実な気がしている彼たちは飛散しそうになりそうになってしまう度にこれが一番確実だ、彼たちにとって。ここに落ち着いて居られるために。


8

 私は雨がひどく降る中を柄が途中から少し斜めに傾いた小振りな折り畳み傘を差して三十分程前から駅前の時計のある植え込みの前にじっと佇んでいる、沙希は、すげぇ冷たい、最悪だ、ときっと思っていて、実際に彼女はそう思っていた、駅構内のアナウンスが先程伝えた所に依ると十六時二十二分着の列車は途中の線路上で倒木があった影響で一時間以上到着が遅れる見込みだったが、沙希はそんなアナウンスを聞いていない上にそもそも列車が何時に駅へ到着するのかすら知らなかったから気にする、しないの以前にすげぇ冷たいよ、風邪引きそう、最悪。としか思っていない。
 私は時刻がもう十六時四十分になった所で、この田舎の小さな駅前に一人しか居ない駅員はぼんやりと事務所の椅子に座って車掌からの連絡を待ちながらテレビの相撲中継を眺めていた、目の端では外の氷雨模様のロータリーもきっと眺めていてその端の時計のある植え込みの前に立っている沙希の姿も見える事に彼は知ってはいるが気づいてはいない、十六時四十五分。
 彼はおもむろにマイクへ体を向き直すとスイッチをオンにすると、えー、お客様にご案内いたします。十六時二十二分当駅着の列車は、現在、線路上の倒木の影響で一つ手前の駅にて停車中です。えー、復旧には一時間程度かかる見込みと、えー、なって、おります。え、お待ちのお客様には大変ご迷惑を、え、お掛けしまして、え、大変申し訳ございません。又、列車の状況が判りましたらご連絡致します。と言った。マイクをオフにして振り向いたのと窓口の外から「あのー」と声をかけられたのは大体同時だった。
「はい、何でしょう」
「あのぉ、倒木で停車中って、それ上りの電車ですよね? まだ来ないんですか? いつ頃来ますか?」
「まだはっきりとは判りませんが、あと一時間くらいかかりますね」
「そうですか……」
「また何か連絡があればお知らせします。すみませんね。どうもね」
 はぁ、と沙希は溜め息とも相槌ともとれる声を出すとすっかり水の浸み込んでしまったスニーカーをペタペタと音を立てながら屋内のベンチに座り込んだ、冷え切ってしまった両手の指先を温めるために頬に当てた。まじでさっむい。最悪。窓口の隅には畳んだまま置きっぱなしの折り畳み傘が地面に小さな水溜まりをつくっているのをぼんやりと眺めていたが気づいていなかった。柄がわずかに曲がっていて、ゆっくりと傾いていくと、パタンと倒れた。


9

 燦燦と輝いて立っている、「立っている」というのは、少なくとも人の足の様に見えるものが下に突き出ている為だが、それとて幽霊の様におぼつかない。宵闇の中で遠方の街の灯が一ヶ所に凝集したような、砕かれた水晶みたく閃いていた。
 鐘の音がどの方面か、遠方より聞こえた私はミレーが祈りを捧げる農夫とその妻を描いたあの有名な画を思い出したのは実は逆で、ミレーの絵画が私に晩鐘の音を想起させたのかも知れない。
 私は、今、「宵闇」と言っただろうか? 言ったはずだが、言ったとすればそれとて私が一幅のイメージに引き寄せられた刹那の印象に過ぎないかも知れないと、どうして言わないでいることができるだろう? 私は、実際未明の薄明の中に佇むひとつの燦燦とした光を見ていた、見ていなかったことなど無いとどうして言えよう? 私は、光の下から延びる少年のそれのようにか細い足をどうして足の様だと思ったのだったか、それは紛れもなく私自身が、それを光だと、人の(少年の)足だと、認識したからこそそうだったのではないか?
 私は寒い。寒くなかった。はっきりと見た。目を瞑っていた。聞いていた。ここに音は無い。ここは果ても無く広く、一枚の絵画のように区切られていた。手を動かした。何ものにも触れない、ゴツゴツとしていた。冷たかった。湿っていた。痛んだ。手を見る。暗くて何も見えない。血が出ていた。指の腹が深く切れていた。手は無い。遠方を見た。目は無い。鐘の音が風に乗ってやって来ている。耳は無い。頭も無い。足元の草は風になびく。足は無い。腰もなく、腹も無く、胸も無かった。鐘の音があったかも知れず草が風になびいていたかも知れず宵だったかも知れない薄明のどこかには光を一ヶ所に寄せ集めたような漣が無いことは、知っていると言えるだろうか?
 忘れられた様に口だけがぽかりと腔を開けていた。


10

 渺渺と風の中を空洞が横たえられていた。空洞は風に靡きもせず、風を吸いもせず吐きもせず、ただ私の目を冥くするだけだ。渺渺といつまでも続く背の高い草野原で、陽は暮れるとも明けるとも知れないぼんやりとした曇天で風だけが研がれたように冴え冴えとしていた。私は空洞だっただろうか、といつか空洞である私は私の空洞に訊いていた。空洞はただ鏡のようにうすぐらく横たえられていて私にはかつて私だった空洞がいつか私となって深い草の底の冷たい土の上に横たえられている、裸で下着さえかろうじて穿いているだけのいったいいつから今まで皮膚に薄い青い刃を夥しく突き立てて、足の底を刺しながら走っているあんたは、どこもかしこも赤く腫らした人形みたいな青白い肌をして、刈り揃ってない頭髪をフケとシラミだらけにしてどこから走って来たのかも知らない空洞に横になった私は怒りで煮えくり返りそうだ。
 ウラァ! 控え目に言って獣の様な喚びが聞こえた。ウラァ! 空洞から耳の切り裂くみたいな罵声がやって来、あんたを蹴とばしたので泥まみれになりながらあんたはいっそう草でズタズタに切り裂かれながら私の居ない目の前を勢い良く転げ回った。ウハァ、良い気味だ。
 良い気味だ良い気味だ良い気味だ私は空洞になって横たえられているあんたを見下ろして。嘲る、嘲ったことで空洞はよりいっそうハッキリと存在した分私は薄くなった、あんたが居ない方を見てニヤニヤとしている私は何度も何度も轢かれた野獣みたくぺったんこの干涸らびて、もう空洞でも何んでも無い。


11

 爆発が起きた。散り散りの感情のように飛び散った石は僕の体に、横殴りにあられのようにふり注いだ。怒鳴り声のような音が割れた。そのすきまから無残に砕け散った母親とその子どもたちの目が覗いていた。もうだめだ! とわめく老人みたいにカラスがものすごい数の黒い影になって回転しながら突き抜けていった、黒い火焔と煙の中を僕もまた父にぶたれた子どものように突き抜けて逃げて来たのだ、でもどこに? どこに逃げればいいというの。はぐれた子どもみたいに煙に噎せて、ひとりぼっちで煙に巻かれて泣いている迷子の子どものように毒に咳込んで地面に倒れた。


12

 考えて何かを決める、何かを決めるために考える。何かを決めていくために考えて、文字にし、言葉にして、「何かを考え」て、何かを考えたことにして何かを決める。考えて何かを決めるために考えて考えて決める何かを考えていく度に私は私が「為したい」「何か」からは遠ざかっていく。私は、私が何かを為したくて何かを為したいから何かを為すために決めようとすればする程、決められたことは決められたいことからは離れていき、決められたい事を言葉にすることは決められたい事を探すために、より詳らかにするために、光を当てようとする度に決めたいことと決められたこととは「決められたいこと」のはずだった何かはもう見えず、失われ、無くなったのか、はじめからそのようではなかったのか知らなくて、私は決めたことを決められたように決めたことを決めたようにやるそれはもう(私の決められたいことは)ない。決められたいことは、私だが、私の決めたいこととは違い、決めたこととか決まったこと、決まってしまったこととも勿論違う。私は、私はない所で私としてやっている、ただの論文のような私としてでしかない私としてしか私ではいられないままに決める。決めてしまう私はもう私だった私ではなく私だった私になった私でしかない。私をいくら重ねる程私から遠ざかる私としていたものは私にあったことからもう生まれない石の様に冷たく。塵のように重たく、存在していない。
 言葉は落下し言葉は突き差さり言葉は割れ言葉は複製して言葉は隔離し言葉は切断し言葉は撮影し言葉は説明し言葉は問診し言葉は手術し言葉は処方する。分類された私はひとつひとつの箱の中から顔を覗かせる。無理にニコニコと笑って「ヤア!」と笑うけど本当は怯えているんだ。私が私に私に私を卑怯者め! 私は笑う。私は笑うんだ。卑怯者め!


13

 数々の山の上に魔女が立っている。


14

 遠方に遠方へと次第に青さと透明とを深くしながら山は連なっていた。
 何十年とここで経た訳でも無いのに、彼女たちはわたしと自らの身体がそのつらなりとあたかも一層にひとつづきであるかの様に感じると心臓もそれに合わせて葉脈の様に血液をわたしたちの体のすみずみまでいき渡らせてひとめぐりする、この高地を通過する、いまも、風の様だった。
 肺が膨らんだ、朝方の霧をわずかに残して膨らんだ大気は、彼女たちの胸に根の様に張り廻らされた肺胞に吸い上げられて体温をわずかに上げた身体は恒常性を保ってあなたたちがただの土くれでない事を伝える。わずかに震えている表面はゆっくりと一定のしかし同一でないリズムで膨張と収斂とをくり返した、まるで眠る象の群れの夜のようだった時間みたいだったと、彼女たちは互いに腕を組み、ある所では手を繋いで、今放射冷却で凍てついた地表から太陽が徐々にかげろうを起こす。


15

 夜だったので灯りが点いた。窓ガラスに白い顔がぼんやりと浮かんだ。私の首には紐が懸かっている、紐というよりは縄である。
 窓ガラスの向こう側は夜景が綺麗だ。嵌め殺しになっているので飛び下りることはできない。やれやれ、だ。
 1シート分の錠剤を全てフローリングに落とした。両手でかき集めて髪の毛やホコリなんかと一緒に全部口へ入れた。コップの水を飲み干すと下した腕の勢いに乗せて叩きつけたコップは派手に割れた大きめの破片を拾って左腕に押し込めた。
 ゆっくりと引いた。血が出た。
 ガラス窓へ近づく前に私の右足の裏でガラスが割れた、痛くてもう歩けないので残った左足で大きくケンケン跳びして着地。よろけてガラスに両手と頬をくっ付けた、ひんやりとしている、そのまま夜景を眺めながら私はずるずると座り込んだ、高層ビルのてっぺんでは赤い光が点滅していたその手前には半透明の私の白い顔があって面白かった。


16

 コップの中には水の溜まった底には爪が一枚血糊のこびり付かして沈んでいた私の人指し指の血で書いた手紙を読んでよと差し出したあなたの額にはひとつ赤く膿んだにきびが膨らんだままむしり取った左手の人差し指には膿と血がこびり付いたのを洗った、その水だった。


17

 慈しみ続けた老婆が亡くなったとき初めて彼は泣いた、悲しいという感情からというよりはむしろ雨のような水だった。音も無く降り続く秋雨の匂いにかき消されて彼は彼の年老いた女を抱いて涙を零していた、立ち寄らない音たちがくり返し夢の中で訪れては消えた彼のかつてのすみかの戸を叩いた。くり返し。潮騒のように耳には届いた、彼の娘である年経た耳に。茸のような朽ちた世界の欠片に。


18

 雨に塵が混じっていたのでこの地域の鳥類の翼は皆、セメント様に固まってしまったと言う話を、祖父は母の私の息子が未だ曽祖父となった後の、彼の孫、つまりは彼の息子の父親に当たる男は、いつも眠る前の昔話として、枕元で彼の母が語ってくれた途呆もない数の作り事か本当かも判然としない、というよりもむしろ、いま彼に語られているというその事そのものによって真実たりえているような出来事の夥しい流砂にいつも呑まれる様にして眠りに落ちたことさえ気づかない砂粒の一つを拾い上げる様にして彼は聴いた。


19

 


20

 道が二又に分かれた崖の上に怪物は立っていた。右へ進めば真っ逆さまに滑落し、左は霧の中だ。
 怪物は古いおとぎ話に出ている虫に似た翅を持つといわれてる鱗のない竜に似ていた。彼はその醜悪さにふさわしい残忍な性格をしており……おっと、どうやら私の関心ももうここまで。尽きてしまったようだ。彼は薄ら笑った。もうずいぶん長いこと彼は彼の父親からそんな風に、彼は一度も彼を褒めたことが無い、せせら笑った。彼の父も彼をやはり同じように嘲笑の傍らで育てたのだった。彼は軍人だったが、本当は彼は画家になりたかった。彼の生家には彼の祖父が描いた油絵があったが、もう永いこと陽の目も見ずに納屋の奥ふかく眠っていた、それはさながら封印されて来た彼の、それはもう何年も前に彼の肉体と共にほろびてしまった、童心の、なごりみたいだったが、彼も彼の父すらそれは知らない。忘れてしまったというのでもなかった。ただ、知らなかった。
 絵は藁の干された田を描いたものだった、不器用な筆先で荒っぽくまた所々には辿々しく描かれた景色はそのまま彼の臆病で未熟で、けれど好奇心でいっぱいの私じしんのそのまま写し絵であったよと祖父はそれ切り黙っていた。涙をいっぱいにして喋っていた。


21

 くり返し何度も何度も突き刺した、胸に腹に見る間に血に染まった、それに苛立ってさらに何度も何度も突き刺した、上目を向いて口角には血の泡が溜まっていたので次に彼の首にも刺した、刺したっていうか、突き立ててそのまま力まかせに両手で、体重をかけてぐいと横に引いた、包丁はでも思った程動かなかったが、それで充分だったのは、血がジュースみたくあふれて来たのを見たからだ。
 ふぅーっと、大きく息を吐いた、清々しい解放感と安堵に包まれた、男は、彼の父親がもう彼を怒鳴りつけることはないし、酒が彼の臓腑を満たすこともない、笑った。
 窓の外はとても明るかった、満月だったろうか。彼は父親の下腹辺りに尿を引っかけていた。少しばかり湯気が立つのが月光に見えた、よく見るとそれは体全体から上がっていた。スポーツの後みたいだ、と、彼は、思った、何も言わない彼の体を襟元に立った刃物が標のようにキラキラとひらめく。そいつは彼の印でもあり、彼じしんの印でも又あった。男の身体からも湯気が立ち登っていった、外に出ると、草の上に身を横たえた、絵に描いた様な群青の雲と、少しばかりしかし欠けたように見える満月とを見て、ああ世間はこんなに明るかったんだぁーっと思う間も無く彼はいた。


22

 ざわめき止まない。早口でまくし立てている。潮騒。数々の人々。夥しい声の群れ。颱風の一夜の草原、その傍にしがみ付いたあばら屋に立て籠もる。無数の虫の羽音。灼熱の砂が軋む音。耳の渇き。頭が割れそうな程の雑踏、電車の通過音。ラジオから途切れることのないノイズ。半分は私の声。半分の半分は父。残りは母。
 ざわめき止まない。頭を打ちつける音。コップの軋んで割れる、硝子のキリキリといった響き。ガラスがガラスを引っ掻く音で頭蓋の内側がズタズタになる。眼球が縦横に切り裂かれて、天蓋は明滅。クルマのヘッドライトが次々に通り過ぎては天井を、部屋の内部を濡らした様に照らす。巨大な重機が幾つも幾つも通過するみたいな犇きと雷のような音を立てる! 私は折り畳まれる、幾重にも折り畳まれてしまい込む、あるいは敷かれる。引き延ばされた時間は無限遠へと遠ざかる。あるいは私の体は私そのものへと折り畳まれて近づく。とんでもない苦痛。無数の、極小の、極大の、超遠方からの、目の前に有る、ノイズ、の幾重にも連なる鉄の轍の歯車。軋む。鋼鉄の羽虫。針金の芋虫。
 さんざめく。打ちつける光は眼球を照らす。暗闇は光だ。暗闇こそ光より逃れられない光だ。打ちつける。早鐘が鳴る、夜が明ける映像が流れる。夜が明ける映像が流れる映像が流れる。そこへ私も映り込む。私も映り込んだ映像を映す映像を眺める私を映す映像が映る。ざわめき止まない、よく分からない夜は明けない、瓶の底にへばり付いた夜を飲む。よくわからない粘性の液体は無数の小さな黒い私が蠢く(砂鉄みたいに。)


23

 静かな光の散り散りにひらめき交わす水の底を、一匹の蟹が歩いています。
 蟹の口からはすこしずつ「あぶく」が浮かんでははなれ、ポクポクと遠方の水面まで上がっていくのでした。
 蟹はものを思いませんが、ただ彼と共にある「あぶく」のひとひらひとひらのように、彼にはいつも異なるが、いつも同じく確からしいことがただひとつ切り定まってあるものでした。蟹はものを言いませんが、それは水生のいきものらが皆そうであるからでなく、ただ蟹といま名指されているこのひとひらの魂に依ってあるからです。
 蟹は、「むろんわたしたちがたべ、たべられしているこの『あぶく』のようなみなそこに、ひろくあふれているひらひらのひかりから、みずくさ、それはもうさまざまな、ひかりとひらめかすいきものたちを」と言いますと、すかさず。ざわざわと水面がこなごなに砕けた光の水底はいろいろな大きさ、濃度のひかりを蟹の姿に映しました。おや、遠方では嵐がやっていると彼は、ひとりごちた。
 じきに冬です。


24

 森に濾過されたしずくは満天の星空から降る雨のかたちづくった人形の内側の隅々まで、「こころ」のように繁茂し、浸透して、周っていた。まるで星座早見図のようにかれの胎内の展望はいつか見られた蝶が番って舞うようなリズムで明滅しているかも知られ無かった。


25

 胎内。
 もう待ただ。
 もう待たない。


26

――今日はずっと寒かったね。
 にこにこと猫が言った。
――うん。昨日よりずっと。
――冬が来るんだもの仕方ないよね。
 エルダはひとりつぶやくみたいに言う。ガラス戸に結露した玉の一つ一つにさかさまのぼくが沢山映っているんだ。
――ねぇー、ねぇ。一体いつになったら来てくれるの?
 猫は不満そうに大きく口を開けてうずくまった。
――わたしらこんなに我慢したのに。そういういじわるするのはひどいよね。
 あわてたように「とりつくろう」。
――いいんだ、違うさ。キミったらいつもそうやってごまかすんだ。
 涙ぐむ。
――臆病者!!
 泣いてしまって、エルダは、猫のそばに寄って、ごめんねごめんね、ぼくが悪いんだよね? ごめんよ。猫。
――猫は知らんぷりします。
 そっぽを向いて出ていった、さようなら。自分では開けられないの。お願いね、とぼくはドアの方を開けた、しっぽを振り振り夜の中へ。


27

 それぞれ相見ている。対岸から霧がやって来る。向こう岸の彼女は脚元は見えない、襲いかかって来るように霧が河を渡って来たからだ、彼女は全身に水滴で覆わせた、彫像のようにキラキラとしていた私は、対岸の男を見られている。男は呼吸をする度に霧を吐いていた、否、吸っているのかも知れないと男は思う、男は思うその思いも霧に包まれた様に漠としていたが、彼の思考より出で来たる霧が具現したものなのか、あるいはしかし、河を渡って将に今広がりつつあるこのわたしたちが、男の思考野へと迷い込んでいる為なのか、杳として知れない、彼女は彼が欠伸する様に、今、呼気を霧していることを知ったけれども、彼はついさっき、いつかの未見の果てに何かの獣がときの声を上げるみたくに吐いているか、吸っているかも知らず、ただそうしていた。
 二人の間をまなざしが往く交ったとき、同じだけ河に水が過ぎた、二人は言葉を交わさないまま決して目線を逸らさなかっただけ、同じだけの言葉が河を流れたし、岸にぶつかって、ばらばらになって、霧に交合して、ひそひそと囀り合ったり、ひっきりなしだった。
 えもいわれぬ悲しみがわたしたちとなって二人を包んでいた、どうして(誰が)知りえよう? わたしたちの秘密は、彼女に、彼に、二人の間にあるはずが無かったすべての言葉、すべての感情だ、それらすべてがむちゃくちゃに交合して、くたびれてしまって、さざなみが泡立つみたくに無数の、それはもう本当に数え切れないくらいの、わたしたちになったよ、とわたしたちは言った、言ったし、ずっと言っている、今も、いまももう言っているけど、聴こえてないね、と彼女は、彼は、佇むばかりに深くなる霧の奥ふかくに林立したたったふたつの、ふたりだった。


28

 カフカは門の前に一人の男が立っている。門には門番がおり、そこを通過する為の掟が定められているのだ。しかし掟は明示されていない。男は門を通過するために掟を解明するために、あらゆる手段を尽くす。しかし掟は開示されないのだ。あらゆる試みが徒労に終え、男は門の前で老いて死んでしまう。今際は、男の耳に門番がこう囁くのが聴こえる。
「門ははじめから開かれていた。お前が通過することが、この門の掟だったのだ」と。
 メノンのパラドクスに依れば、わたしは何をも知ることができない。なぜなら、既に知っているものに対しては、当然ながら、既に知っているのだからもう知る必要が無いのだし、逆に、わたしが知らないものは、そもそも知らないことすら私は知り得ないはずだから、やはり私は知ることが無いのだ。こうしてわたしは何をも知りえない、という。
 一艘の舟を補修している。補修を繰り返すうちに、はじめその舟を形づくっていた木材は全て別の木材へと置き換えられてしまった、さて、今その舟ははじめの舟と果たして同一の舟なのだろうか。
 舟とは舟を形づくる木材の総体のことではない。舟がある形を形づくっており、それが適切に操作されることで航行するという、運動自体がその舟を規定している。彼を構成する個々の材料自体は「彼」にとって重要ではあるが決定的ではなく、それらの材料が相互に取り結ぶ、ある動的な関係性とか、環境そのものが「彼」という。彼は明滅する世界の現象の夥しいひとつとして漣をなしているけれど、わたしは、飛沫が、わたしたちと、次の瞬間のわたしたちの落下する飛沫の漣との間に、確かに明滅したけど、あるときひかって、いつか闇となって。


29

 いくつもの紙が重なった中だった。古びた椅子が一つあり座っていた。紙束に埋もれる中には読んでいた文字もあるという事だったが、読まれないものは文字でなく、存在していないことと同じだったので、こうしてわたしたちはただ紙束に埋もれていると言えた、紙魚のように、ごくわずかばかりの大きさで、延延と積まれてはまた崩れていく紙片の海をあてもなく回遊する。文字は無いので、読まれるための目も従って必要とされなかった、即ちわたしたちは聴いた。読まれない文字が書かれることはない。なぜなら読まれない文字は文字でもはや無く、線の入り組んだ濃淡に過ぎないのだと言っていた。それとて見えないわたしたちには関係なかったから。唯刻刻と漣が寄せたり引いたりするみたいな紙片の上をペンか何かが引っ掻いたり紙片同士が擦れ合ったり崩れたり、また積み上げられたりするだけだ。わたしたちは登ったり埋もれたり、口へと入ったものを時折り噛んだりして、とりかこむ紙や掻きつけるものたちと同じように繰り返し、ざわざわとしていた。
 椅子に座った古びたものは何も考えてないわたしたちみたいに、唯思索を続けている(このように)ともわたしたちは考えられていた。唯漣が無くても潮騒がどこからか聞こえて来はしないだろうか、夕暮れが暗く、刻刻となっていくのに怯える子どもみたいに。わたしたちは眠ることはあったものの夢を見ることは決して無かった、決して無いなどと誰が言えただろう? わたしたちは時時眠っては、お喋りしてその度にまたくしゃくしゃにした紙をまた広げて、よく伸ばしては、洟をかんだり、涙を拭いたり、また時時は笑い合った。悲しいときもあった。


30

 蜘蛛は蜘蛛が紡ぐ巣として彼の言葉を紡ぐ。それは生きるを回復させることば、だ。
 ①クモは文字を書くようにしてかれの巣を紡ぐ。②クモは文字を読むようにしてかれの巣を紡ぐ。①と②とは同時に行われる。①=②である。蜘蛛は、かれの知らない世界を読むためにかれの知っている巣を作る。いやちがうな、蜘蛛にとってかれがまさにいまこれから作ろうとする巣は知らないものだ。クモを含めたわたしたちは知らないものを知ることができない。蜘蛛はかれがこれから作る巣をかれは知らない。わたしはこれからわたしが書こうとすることばをわたしは知らない。しかし蜘蛛は巣を紡ぐことによってかれの巣を知る。ちょうどわたしが言葉を紡ぐことによってわたしの言葉を知るのはクモの巣と同じであると。知るというのは書くことと読むこととが同じであるということだ。同時に生起し同時に進行していっているということだ。仏陀が示した「縁起」とはまさにこの意味においてではないだろうか、とわたしはおもう。蜘蛛は蜘蛛じしんが巣を作ることを知らないし、かれじしんが巣を作る。それはあらかじめ未来からいまを通って過去へと向けてつらぬかれたあのことばを辿ることだとわたしはいまおもう。未来をたぐり寄せたいのではない。未来と過去とは同時にあるということだ、未来が定まっているのではなく、すべて運命に従って予定調和として働いているのでもない、とわたしはおもう、そうではなく、とわたしはおもっている、そうではなくて知らないままに紡ぐことによって、いままさにこうしていま知っていく、知っていき、つつあり、知ってきている、きていた、きてしまったという大きなはたらきが、わたしは、それだと、いまおもう、ていた。


31

 機械はそれが最も効率よく人を擂り潰すことが出来るように設計されていた。なんですって? 旅行者は問い返した。それは設計者である彼の父の言葉と同じく、人、とくに息子をより効率よく、擂り潰すために、設計され、使用されるのだ。わかったかね? 低能な猿君。
 旅行者はその場でジダンダを踏んだ、口元から唾が滴った。目の前を大へん巨きな馬がもうもうと土埃を上げて幾頭も幾頭も通り過ぎる、その先頭に騎乗しているのが彼の父の博士だった。
「やあ!」と彼は怒鳴った。
「うす汚い権力の犬君、眺めはどうかね?」
 言い終えない内に下馬した父が鬼のような形相になって彼の胸ぐらへ突進してきた。拳で数回彼の顔を殴りつけたと思うと、つき倒し、馬乗りになってっさらに数発お見舞いしようとする風だったと感じる間もなく、彼はぐるりと身を翻して立ち上がると、脱兎のように駆け出した。
「逃げるがいい、卑怯者!!」
 背後から博士の荒々しい罵声が響き、旅行者はそのまま埠頭から沖へと向かってダイヴした。波の泡沫がしきりに彼の顔を洗うのでたまらなくなって喘いだ。必死に両手足をバタつかせた。海水がたっぷりと入って靴は沈んでしまったのか気づけば素足だと思ったけどそんな事に気づいているのが馬鹿みたいだと溺れながら彼は感じていた。


32

 傷口の上には幾つもの工場が建っていて煙り、汚泥を止むことなく流し続けた。


33

 幾重にも重なった布が襞のように空間一帯に垂れていた。劇場内部はあまりにも広大に設計されていたので、(元々襞の為に充分な奥ゆきはどこにいても見通せなかったが)遠方は闇に落ち込み、上方もはるか先は闇に沈んでいた、その間隙を埋め尽くすように布が降りて来ているのだった。
 どこに居ても必らず子どもには出会った。「迷子たち」と便宜上そのように呼ばれていたもののいわゆる「保護者たち」に出遭ったものは誰ひとりいない、第一どの「迷子たち」として、まるで何十年も前からこの劇場に暮らしているかのように泰然として古老じみた振る舞いをした、「迷子たち」がものを言うのを見聞きしたものは居なかったので、あの子たちは文字すらも知らないものだろうと噂されていた、一度会った子に、二度と出遭うことはまた無かった。
 この広大な劇場の中で、一体何人の「迷子たち」が居るのかということは意見の分かれる話だった。「迷子たち」と複数あるように呼ぶのはそもそも誤りで、ここにははじめからたった一人の子しか居ないのだと話すものもいた。かつて一度だけ聞いたことがある話では、そもそもここにはたった一人の子すらも居ないのだとするものもあった、あるのは無数に降り下がる襞の擦れ合い翻える気配だけなのだ。第一何を食べて暮らしているんだ、ご覧、どこを見渡しても排泄物ひとつ無い。そもそも眠っている子に出くわしたことがあるか、「迷子たち」は要するに単なる気配。幽霊よりもさらに薄っぺらい擦れ合いに過ぎないのだとするのが最近では専ら主流である。


34

 枯れ萎れた花が一輪、銀色の花瓶に挿されていた、水はずいぶんと腐って経つようだ、異臭が一帯に漂っていた、きっとバラだった。紅いバラだったのでしょう。その花は、崩れた老婆の口唇のように荒れて色褪せて、干枯らびた。
 蠅が辺りを周回している、蠅は時おり灰茶の花弁に留まっては上肢や下肢をひとしきりこすり合わせて何かに拝んでいる様だ。部屋の中は密閉されているし、窓辺には銀色の花瓶の置かれた窓のサッシュには四、五の蠅の死骸がひっくり返っている。
 何も過ごすことの無くなった西日の中で、花瓶はゆっくりと煤けていくようだった、かつて燃えるように輝く生命は上方では千々の灰となって、下の方では酸い淀みの中で腐ちあぶくとしていた、かつて交わされたあらゆる言葉がそこらへんにぼうぼうと漂って居やしないかと、恐れては今にも叫び出さんばっかりの子どもみたくだ。


35

 密集して蠢いている中から一つを把み出して殴りつけた。ピィと悲劇的な声を出してそのまま床に叩き付けた。バタバタと身をのけ反らせたりくねらせたりしてもんどり打って暴れたのをギュと踏みつけた、口のような所と肛門のような所から黄色い泡を吹いた。アハハと笑ったのは僕だ、ドキドキとして、涙が出てくる、非常に楽しかった子ども時代の思い出だ、父様。
 大きなアクリル製の水槽だった。買って来たばかりのピカピカとした、工業製品の匂いだ。試しに身を屈めて中に収まった、僕の身体は誂えたみたいにピッタリと収まった、父様、僕をつかみ上げた、服を引き剥がして身をむいて弱弱しく勃起したペニスに注目した、初めは優しく、次第に力を込めて。最後には爪を立てて思い切り握り込んでやった、ギャと猫を絞め上げた時みたいな声を上げた僕が、許して、許して下さい父様、父様、痛いです。そうか、痛いか? 痛いです父様許して下さい。
 首根っこを把んで思い切り絞め上げると、そのまま水槽の壁へ叩きつけた、ガン。一回。ガン、二回。ガン、三回、くり返しくり返し叩き付けるアクリルの壁は思いの外がんじょうで、叩き付けるばかりに苛立ちが募る、アクリルの壁はヒビも割れず、唯々、息子の血と脂とそのほかの液っぽいベタつきを付着させるだけだって我慢ならない、父様。
「ミンチにするとは小説でよく使われる常套句だが、馬鹿云っちゃあいけない、人間の身体なんてものがそう簡単にミンチになったらお前は生きていけないぞ今頃。あれは専用の機械にかけるから原型も留めない挽肉の塊になるんだ、この程度じゃあ粗挽肉にもなりゃあしないぞ、甘えた事を抜かすな! 泣くな! せめて吐いてみろ、歯の一本くらい抜けてみろ! 目ン玉の一つくらい抜けてみろ! 俺が挿れ直してやるから。そう言って父様は僕の顔を僕の身体に馬乗りになって把みかかると僕の右目に指を突っ込んだ、ほらほら、どうだ? 目玉は取れないか、この軟弱者め、痛いですやめて父様やめて下さい、本当に。もう許して下さい、もう二度と逆らいませんから、神様に誓います、どうか、父様!」
 繰り返し何度同じ言い訳をしても結局は又忘れ、反抗心を起こして同じ悪事を働く、子どもとはそういうものだった。子供は野生の獣と同じ。牙を矯めて、去勢してやらなければ、誠実で、従順で、利口な人間には育たない。私たちは私たちの先祖の代からずっとこうしてこの豊かな風土と伝統とこの地域、この社会を守って来ました。わたしたちの父の父がわたしたちにこの土地を与えて、私たちのために色々な境界を決め、制度を整えて下さった、子供に必要なものはまなざし。そのまなざしの事を教育と言うのだった、まなざしには二つ種類がある、温かいまなざしと、つらく厳しいまなざしとだった。どちらのまなざしも子供にとっては恵みとなった。わたしたちはわたしたちの父母が祖父母が曽祖父母がそうであったようにわたしたちの息子にも娘にも隈なく絶やすことなくふたつのまなざしを向けていなければいけない。そうでなくては化け物、獣、様々の山のものたちに誑かされ、拐かされ、貪られてしまうのだった。わたしたちはひとつをつかみ上げた。身を捩って逃げようとする父様の顔にそっくり。


36

 もし、きみが、いま、どこっか、遠くで、燃えはじめた火なら。いくつもの、焔と、火の粉とを、散らして、さんざめくきみが、わたしの目に届いて、いいえ、届かないくらいに、はるかな所で、けれどわたしは知った、きみがいくつもの、いくつもの手を伸ばして、いくつもの手を伸ばして、きみに気づいた、わたしが、わたしがきみに気づいたことを、きみが知りたくて、手を伸ばしているのだと、きみは気づいただろうか?
 幾億の、火の粉が、降り上がって、それは星空だ、満天の夜と、きみがわたしから教えてもらっていたのに、きみは何も知らずに、唯、きみじしんが、夢を見て眠る子どもの夢みたいに、きみの上げた、上げ続けていた声の、声そのものの、声と、きみはお喋りを続けた。きみはどこか知らない程遠くにいて、それにきみは火で、きみはわたしの分からない場所に居るひとりで燃えはじめているきみは火で、きみの火は知らないわたしの知らないはるかなひかりを、あらんかぎりのひかりを、ゆっくり走らせている、わたしの目は、けれどきみに届くことは無かった。そんなことはよく知っているわたしは、きみに教えた、ことばのひとつひとつを、わたしの耳に残ったわたしの言葉の余韻を。もしも今どこかでこうして燃えはじめたきみの火が、知られたあらゆる時間の、無数の切れ端と切れ端とが、たまたま重なった、その一瞬だけ重なっていたかも知れない、その重なりの透明なひとつだとして、そのときわたしはどこに居よう? きみが、きみはきみであることが、きみの火を燃やしはじめていることが、無数の一瞬のくり返し演じられたどこかのきみと一致していて、それがわたしにきみを知らせた、知らせだと、わたしは知っているだろうか、わたしは、知らない、きみが、きみは、ゆっくりと、走った、通り過ぎた、わたしの、ひかりで、知らない、わたしから、眠る、きみが、遠ざかる。
 きっとわたしはきみが火なら知らないだろう、燃えはじめた。


37

 また、怒号と共に破れ散った。山脈の頂き近くに暮らすヨンの一族は、ウリャヌムイカと彼たちが呼ぶ山羊の仲間を放牧して生計にしている、この生き物の体毛を擂り潰し、特殊な器械で薄く濾して一日ばかり天日に干すと、丈夫な紙になるのだった。
 彼たちの女たちはウリャヌムイカの体毛の紙と血から作ったインクとで古来より詩をする習わしがあった。それは女性たちの間でのみ綿々と受け継がれて来た秘密の文字に依っていた。女たちの言葉でこの刺繍のような複雑極まりなく華麗な文字の事を呼んでシニィャウツクと言った、それは「天は山菜の細やかさを知らない」といった意味をしていた。
 ヨンは今年十四になる。ヨンは男だったが、物心ついた時から母に連れられてこのシニィャウツクの工房に出入りをしていた。女たちしか出入りが許されない工房にどうして母が彼を連れこむことができたのかも、またどうして連れて入ろうとしたのかも彼には及ばない、母とその女たちの「思い」が彼にはあった。それはちょうどシニィャウツクの刺繍のひと刺しのようなことだ。父と年寄りたちには伝統を重んじる様子が、ヨンの幼心の甚く降らない日は無かったちょうど嵐の切れ切れの雷鳴の、年端もいかないものの心の散り散りに破り棄てさせるのにじゅうぶんな。女たちは何もそんなことはなにもひとつとも気にしていなかったというに。その度に母の流した涙の、シニィャウツクの春の霧のように細やかな言葉は受け止めてきらきらと光った。そのようにすべてして、ヨンは、彼の言葉を知った。


38

 引っ張った。腕は藁束を引き去るようにガサッと抵抗もなくもげた。バランスを崩して私は身をひねる様にして崩れていく。その視野では、片腕から血をほとばしらせて蒼白な顔をしてゆっくりとやはり崩れていくのが見えた。雨が降っていた。冷たい夜だった。
 嵐が到来していた。夜の頂点のめぐりにはひっきり無しの雷鳴と轟轟たる風と雹とちぎれちぎれになった闇とが蠢いていた。私のランプは明滅していた。アルコールが切れかかって、やがて崖を転がり落とされた箱の中のようになった。僕は僕が泣いているのか、それとも嵐の静けさなのかそれが判らない。でもひとつはっきりとしているのは僕の夢の中で僕の少女が母さんと一緒に作っていたのは、まぎれもなく僕のための本で、僕のわからない僕になって僕といっしょに考えてくれるためだったのだ。
 僕はきっと泣いて涙を流していたが、目を明けているのか閉じているのかはわからない、とても静かなのはとてもひどい嵐の中でおき去りにされているのかそれともほんとうにしずかですてきなところに来てしまったのか。僕は頭の中で何度も何度も僕の体をひっかき回したりバラバラに砕いたりしたけれど、でもそれで僕の体がまだはじめから目なんて無かったのかもしれないし、嵐はほしいのは、ここは夜みたいにいつも夜みたいくらくてひとりぼっちな気がするって事なんだ。


39

 今日一日の仕事を終えてみると、ヨウはずいぶん清々しい気分に彼の気持ちだけじゃない、彼の身体もだった。
 荷物を背負って畜舎を出た。陽はまだ高いが、夕暮れまでそう遠いという程でも無い、工房まで戻る頃にはもう一帯は紅黄金色に鈍く輝いていた、遠方の山山は内部に炎を宿した氷塊のように見えたし、はるか上空の果ては湖の底よりももっと深い紺青に沈んでいた、「ただいま」と扉をくぐるヨウに工房の女たちがめいめいの優しさがこもった一瞥を返した。
「とても寒くなって来ました」ヨウは温まっている乳をカップに注ぎながら言った、「大気が薄く結晶しているような、ずっと夏よりも遠くから光が通って届いて来ていますね」
 女たちは黙々と筆を走らせて乳白の厚手の紙の上へ蓮華の様な複雑な紋様を書き付けていた、ヨウが奥の工房へ入るとそこでもやはり幾人かの女たちが、こちらは手前の工房よりも年代は様々だった、木製の大振りな枠を抱えながら、薄緑の薬液に浸して繊維から紙を作っている、ここがヨウは彼の「本当の」仕事の場所なのだと、彼はことある度に、口にはしないものの、そういう風に思う。感じている、本当にヨウはいつか『天の知らない山野草の文字』の刻み手になることが、彼が消えてしまいたくなっても、死んでしまいたくなっても、そうしないことの、生きるよろこびも悲しみも、全部含んで決定づけていると。
 濾し手たちは一定のリズムに合わせて動く、ひとつの大きな器械のように動いている、ヨウには彼はその心臓の鼓動のように薬液の音と、まるでこの土地の心臓そのもののように繰り返されていた。


40

 猫の滴を拭いたティッシュペーパーをベッドの底に沈めた、わたしたちは昏昏と暁迄眠るのだ。


41

 心に傷を負った子どもたちが、ここ〈天使協会〉にやって来る。彼らは彼らの傷に応じて、商品を売買して詩を作る。すべての身体の商品が無くなれば彼女たちは詩と(つまり言葉と!)等しくなるんだ。それは最高の祝福です。でも商品を売るのは容易じゃない。なぜならそれは彼らの作品と同じ重みを持つからさ。天使協会では毎年高額の商品が売買されている。アンリ、ヘンリエッタ、ユナ、キリト。それからマチス、ガブリエル、エルダ。ナユタ、ソレイユ、カトウ、クレー、キリコ。


42

 ざんざんと蠢いている無数の夥しいはるかな言葉の群のどれかひとつ(ひと塊?)として、それは果たして肯定だろうか、否定だろうか、疑問なのか、はた又特に指示や志向のない観念形成以前の感嘆なのか、わたしたちはあった。勘ちがいしないで欲しいのは、ここには言葉しか無いという事と、はじめに言葉ありきという事と。この二つの「神話」だ。と言って私たちは笑った。記号や観念がこの世の全てだったり、すべての始原であるなんて話はね、とわたしたちのひとりあるいは複数が言うことには、三流科学者のひるねの夢か(つまり寝言という訳だ)、さもなくば、気が狂ったもののタワ言なんだよ。悲しいね、と。
 私たちは着て、煮炊きしたものを食う。昼には土をいじったり、別のわたしたちはおしゃべりをしたり体を合わせたり引き合ったりしているものもいた。夜は例外なく眠った。オット、例外なくと言ったのは嘘で、いくつかの私たちは目覚めていることもある。文字を漁ったりするものもある。
 あまりにもざわざわとしている、いくつか、いくらかの部分部分に遍ってはひっくり返っている。いずれも死が訪う時までか、あるいは生まれている(つつある)だけだ。別に、と言ったわたしたちは。何も気にしていなくて、そもそも何も起こっていなくて、いつも全部がここにあるかも、だからだ。だからだ私たちはいつも笑ったり悲しんだりしていて楽しい。時々ちょっと怒っちゃうこともあるけど。


43

 ∅


44

 霧がかかっている皆の向こう側に波が見える埠頭だろうか? とても寒い人々の呼吸が凍てついて真っ白だからここは灰白色なのかも知れない。ざわざわと何かを話している、俺は皆の背中しか見えない、ぶ厚いコートの壁の壁と壁、林立したぶ厚いコートの。霧とコートの向こうに灰色っぽい、鈍い銀色の波が見える。浜辺だろうか? 皆の靴はひたひたに水に浸かって泥だらけで汚れてる、ひどく寒い。僕の靴も。何か話しているんだろうけど霧にかき消されて見えない。日も落ちたので段々と暗くなる、ってそれとも夜明け前かな? 誰かが歌っている。波の音かも、最前に立っていた大人たちはもう肩くらいまで浸るくらいのとこまで湖の中に入って行っている。


45

 悲しみを全て廃炉にぶち込むと灯が灯った。夜明のように明るい。
 よく眠った。謎が謎のままで書き順も知らなくても子どもになった。
 音が鳴り立った。五月雨のリズムで。
 夜猫は書き残した(書きかけの)言葉を噛んで眠る、文字にならない夢を。


46

 寒い。


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