見出し画像

明けた風呂屋で日本酒を。

吉原で、元旦を過ごしたい。

ほんの出来心だった。というか、悪巧みに似た思いつきに近い。確認してみると幸いな事に、年始だろうがなんだろうがお店は年中無休だった(今はコロナで休業だけれど)。

「ささらさんが出るなら、俺元旦に会いに行くよ」

元旦出勤の話をすると色んなお客さんが面白がってくれたが、世帯のあるパパは残念ながら元旦にこそりと抜け出て吉原へ、なんてことは出来ない。独り身であっても帰省する人は多い。会えるお客さんはいないかしら、と思っていたら、むしろ私より乗り気のお客さんが居た。

「俺あんまりお酒飲めないんだけど、日本酒貰っちゃったんだよ。ささらさんが良ければ、正月持ってくるよ」


2019年から2020年になった。彼女と年をパタパタと越して翌日、少し浮ついて吉原へ向かった。家にはお猪口が二個なかったから、代わりにショットグラスを二つ。部屋に冷蔵庫はないから、プラスチックの洗面器に水を張って、そこへグラスを並べた。

お出迎え。新年の挨拶をする。部屋までの階段を昇る。時節のやり取りは友人だとたまに億劫に思えてしまうが、何故か店でのやり取りは好きだった。「あけましておめでとうございます」とか、「メリークリスマス」とか。そういう意味合いで、冬の勤務の方が楽しい。

ドアを閉める。軈て部屋で日本酒が開封される。それもとぷんと洗面器につけて置く。お陰でラベルが後で剥がれてしまった。暫く話して、服を脱いで湯船に浸かる。酒を注ぎ、いそいそと桶を浮かべる。グラスが湯面でぐらりと揺れる。外は寒い。鷲神社は初詣で賑わっていただろう。外の見えない閉ざされた個室で、けれど外を思って露天風呂のような気持ちで器をかちんと重ねる。新年を祝って。おめでとう。おめでとう。

古びた建物の使い古された風呂で、プラスチックの洗面器の上にショットグラス、その中で揺れる透明な酒。悪くない、と思った。私の夢の一つは、露天風呂でお猪口と徳利を浮かべて、そんな絵に書いたようなそれをやってのけることだけれど、これはこれで風情があると思った。吉原で元旦を過ごす、その象徴的な思い出になった。


ちなみに一月三日も出勤し、この日も飲んだ。私もお客さんも飲みたかったのだ。三賀日だもの。差し入れのストロングゼロを片手に、また「あけましておめでとうございます」おと乾杯した。余った酒は、次のお客さんと一緒に飲んで、と託された。次のお客さんはまた新しいストロングゼロを持参してくれていた。お陰で帰りの私の鞄は重かったし、反比例して私の足取りは軽かった。湯冷めないように、入谷駅までの道を吉原神社に頭を下げながら、そして少しふらつきながら足早に帰った。私にとって、忘れられない正月の思い出になった。


出勤前に飲むコーヒー。ごちそうさまです。