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とある小さなお弁当屋さんの話。

コロナによる外出自粛がつづき、少し疲れが出ていた春の終わり頃。

「ちいさなピクニックでもしようか」と妻とこどもの3人で、家から自転車で15分くらいのところにある緑豊かな公園に行くことにした。

三密を避けて公園でお弁当を食べようと、スマホで近所のお店を探してみるものの、新型コロナウイルスの影響があり、どこのお店も閉まっていた。

やっと見つけたのが、全国展開している和食レストランのテイクアウト。ぼくはひとりで買い出しに向かった。

ところが、目的地に着く手前数十メートルのところに、小さく「お弁当」の文字が見えた。こじんまりした地元のカフェといった印象だったけれど、なんとなくここにしようと決めて、お店のドアを開けた。

店内は誰もいない。レジにも人はおらず、「すみませーん」と声をかけたら、「は、はい!」と奥から女性が現れた。

レジの横にテイクアウトのお弁当のメニューが書かれた貼り紙があり、ぼくはその中のひとつ、「はらペコ弁当」を2つ頼み、しばらく経ってからお弁当を受け取り、お店を出た。

家族の待つ公園に向かい、コロナの影響で人がまるでいない公園のベンチに座りお弁当に手をつけた。

とにかくおいしかったのだ。外食もできずにいた期間が長かったせいもあったかもしれない。妻とふたりで、「手づくりの味がするね」「このそぼろの生姜の利き方がたまらないね」「カレーもおいしいけど普段はカレー屋さんなのかな?」そんな会話をしながら箸は止まらず、あっというまに家族みんなで平らげた。

ちいさなピクニックの帰り、ぼくはどうしてもその感動を伝えたくて、お店に寄った。

ドアを開けたら、また、人が見えない。

「すみませーん!」

「あ、はーい‥‥!」

「お弁当、最高においしかったです!」

「あ、あ、ありがとうございます」

「ごちそうさまでした!」


それから数日後。「またあの公園に行こうか」と家族で話したときに、こんな出来事があった。

待ち時間を少しでも減らそうと家を出るまえに電話でお弁当を予約しようとしたのだけれど、ぼくは間違えて、「まんぷく弁当を3つお願いします」と言ってしまった。そう、正しくは「はらペコ弁当」である。

電話の向こうで「あ、 はらペコですね」と少し笑われてしまったけれど、受け取りに行ったらぼくのことを覚えてくれていて、「話し方であの人かなとわかったんです」と言ってくれた。すごいなぁ、よく一度来ただけのお客さんのことを憶えているなぁと感心した。

それから、夏、秋と、何度もその公園に行くことになり、そのたびに、その弁当屋さん(正しくはドッグカフェだった)のテイクアウト弁当を買った。

あるとき驚くことがあった。

「実は、『まんぷく弁当』を本当につくっちゃったんです。オカズをひとつ多くしたやつで」

たしかにぼくは、余計なお世話で「ターゲットの心情をそのまま伝えている『ハラペコ』もいいけれど、その人が目指している状態である『まんぷく』という単語で食欲を刺激するのもアリではないか?」とアドバイスしたことがあった。

けれど、まさか、ほんとうにつくってしまったとは。それからぼくは「まんぷく弁当」を注文することになった。


ところが、うちの家族の引っ越しが決まった。だいぶ遠くに、である。

「最後にこどもとふたりで行って来るね」と妻がいつもの公園に出かけた。ぼくは、平日で仕事があって行けなかった。

するとお昼過ぎに会社にいるぼくに妻から電話がかかってきた。

「お財布忘れちゃったの‥‥!帰りに寄って払ってくれないかな‥‥?」

愉快なサザエさんか、というツッコミを心でしつつ、愛する家族を食い逃げ犯にするわけにもいかない。

妻が続けて話す。

「私たち引っ越すんです、って伝えたのね。そしたら、私たちが初めて行ったあのとき、コロナでお店のことで、毎日悩まれていたらしくて、そんなとき、あなたがお店で『おいしかったです!』ってわざわざ言いに来てくれたのが、本当に救われたんだって。初めて美味しいって言ってくれる人が現れた、って。だから御礼を伝えたいしお代も要らないって言ってくださってるのだけど、ぜひ最後にご挨拶しに行きなよ」

なるほど。そうだったのか。けれど、御礼を言いたいのはぼくのほうだ。感謝の気持ちを綴ったお手紙を「OFF THE FIELD」のトレーナーの背中に油性ペンで手紙を書いてお渡しすることにした。

会社帰りに少し遠回りとしてお店に着いた。真っ暗な時間に行くのは初めてだ。

店長とそのパートナーの女性おふたりが迎えてくれた。「スミマセンでした」とお弁当代の880円を支払って、御礼のメッセージを添えたスウェットシャツをお渡しした。感激して、涙してくださっていた。

「あの時はね、つくるのに時間がかかり過ぎとクレームが寄せられたり、夜お風呂に入りながら次の日のことを考えて暗い気持ちになったりしていて‥‥もともと小さなお店だったけれど、コロナの影響で家賃と人件費をどうするか頭を抱えていた日々で‥‥。でも、お兄さんの『おいしかったです!』のその一言でパッと目の前がひらけたというか、私たちは間違ってなかったんだ、わかってくれている人のためにがんばろうと思えたのよ」とお話してくれた。

それから、いろんなことを教えてくれた。ぼくのことを裏では「まんぷくさん」と呼んでいたこと。4年前にお店をはじめたときのこと。コロナに負けてられないと最近ウーバーイーツをはじめたこと。など。

帰り際に、「コロナの自粛期間のぼくたち家族に思い出をつくってくれたのは、このお弁当のおかげでした」とあらためて御礼を伝えて、「また来ます」と言ってお店をあとにした。

綺麗事でもなく、あの人たちは、お弁当を作っていたけれど、ぼくたち家族の公園のしあわせな思い出の時間をつくってくれていた。

人のために何かをする。よろこんでもらえる。それを見て、こちらもうれしくなる。これ以上の生きてるよろこびが、他にあるだろうか。

「自分のこどもにひとつだけしか教えられないとしたら、それははなにか?」という問いがもしあったら、「人のために生きなさい」とだけ伝えたい。「それが自分のためになるから」と。

情けは人のためならず。人のためと自分のためは、表裏一体なのだと思う。そんなことを考えるキッカケになった、そんな小さなお弁当屋さんの話。

昨晩、そのカフェの女性店長さんがこの一連のストーリーのことをインスタグラムに投稿してくださっていて、そんなことを考えたのでした。“お店側の視点”で書かれたその投稿も、ぜひ読んでみてください。


(おわり)