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『THE FIRST SLAM DUNK』への愛をひたすら語らせて。

期待に応え、期待を超えた2つのアイデア


人は、ふつうに生きているだけで、不安や悩み、痛みや失望にぶつかってしまうものだと思います。それらをゼロにするのはむずかしくて、いかにしてその「見たくないもの」を正面から見つめることができるか。そして、それを受け容れて、前にすすむことができるか。そこに、その人の「人間力」のようなものが表れるのだと思います。

反対に、目を背けたくなるような事実に対して、「そんなはずはない」とか「あっちいけ」とアレルギー反応をしてしまうと、雪だるまのようにどんどん不安や悩みが大きくなっていったり、ほんとうは一部分だけなのにすべてのことがダメに見えて自暴自棄になってしまったり‥‥。

映画『THE FIRST SLAM DUNK』という作品は、ぼくにとって、まさにそんなテーマがど真ん中に置かれたすばらしい作品でした。

4回も映画館に足を運んで観て、4回とも大泣きでした。映画館に行くという感覚ではなくて、「さぁ、試合を観に行くぞ」というような気持ち。自分の人生のなかで、映画館でおなじ映画を4回も観たことは、もちろん一度もありません。この映画が初めてです(そういう意味でも「THE FIRST」でした)。

あの『スラムダンク』を映画にする。つくり手の思いとしては、期待に応えたい、そして期待を超えたい、そんな大きな(私たち凡人には計り知れないほどの)プレッシャーがあっただろうと想像します。

かつての漫画原作を知っている人たちにとって、「あの山王工業戦をそのままアニメ映像にする」だけでは、きっと物足りない。そこに、原作とはちがったキャラクターを主人公に変えてしまうというアイデア。それによって、紙が茶色くなるまで単行本を読み込んだ漫画なのに、まさに「初めて=THE FIRST」観るかのような新鮮さを与えてくれました。

それでいて、いわば「つづき」とも言えるシーンの描写も最後に。ああ、たしかに彼はそのあとキャプテンを務めて引退したあと、海外にチャレンジしていそうな時代だよなぁ(「スラムダンク奨学金」を活用したのかな)という納得の「つづき」でした。

「主人公をズラす」と「そのキャラクターのこれまでとこれからを描く」

この2つのアイデアによって、繰り返し読んできたはずの『スラムダンク』を瑞々しく体感することできて、「さすが」としかいいようのない映画でした。

スラムダンクの世界ではすべてのキャラクターたちが生きていて、ひとりひとりの物語がその世界にぜんぶある。漫画では井上雄彦先生が、その一部分を切り取ってひろっていだけ。だから、それぞれのキャラクターの「描かれなかった出来事」が、たくさんあるのだと思わせてくれました。

そして改めて単行本の漫画を読むと、また新たな発見がある。「ああ、このシーン、たしかに!!」といった。すべてに矛盾がなく、必然性がある。それもすべて、『スラムダンク』はキャラクターがみんな生きているからこそ、ですね。

*  *  *


この映画のすべては冒頭の4分にあると思う


映画版の主人公は、原作ではあまり詳しいところまで描かれなかった「宮城リョータ」。すっかり、というか、まんまとぼくはこの映画を観たあとに、彼のファンになってしまいました。今までリョータのグッズなんて一度も買ったことなかったのに、フィギュアまで買いました。この映画ひとつでこれまで知らなかった新しい漫画(アニメ)を観たような気分です。

そして、あくまでぼくにとっては、この映画のもうひとりの主人公は、リョータの母・カオルでした。

なぜならば、冒頭に書いた「目を背けたい事実に正面から向き合い受け容れて、勇気をだして前にすすんだ」のは他でもない、リョータの母親だったからです。

そういう意味では、この『THE FIRST SLAM DUNK』という物語は、冒頭4分程度のリョータの兄・ソータのセリフがすべてなんじゃないかと、ぼくは思っています。

沖縄でレギュラーをめざして1on1をするリョータに向かって放つ言葉の数々。

簡単に背を向けるな
自分でピンチ呼んでるんぞ

オレをやつけるんだぞ
こわいか 勇気いるよな

オレだっていつもそうよ
心臓バクバク
だから めいいっぱい
平気なフリをする

倒れたあとが勝負
リョータ
むかってこい!
かわすな!

がんばった
元気やった
忘れるな

(*4回観て記憶したものなので正確ではありませんがおおよそこんな感じだったかと思います)

夫と長男の死という人生における大きな「痛み」に背を向けて、どうしていいか分からない母・カオル。リョータやバスケを見ると、ソータを思い出してしまうから(なのか)、リョータのこともまっすぐ正面から見られなかったり、いつもリョータの妹のアンナが仲介役をしたり。

さらに、だれもが目を細める優秀な兄が死んでしまい、自分が生き残ってしまったことに申し訳なさを感じて、すべてがうまくいかないリョータ。それでもバスケがあったこと、兄の叶えたかった夢を果たすことを胸に誓って前にすすむ。

そんな息子であるリョータの姿、そしてインターハイ前の自分宛の手紙を通じて、「私も前を向こう」と広島の試合会場までこっそり足を運ぶ母・カオル。

この「リョータのバスケを観に行く」(しかもリョータに内緒で)」というのが、カオルにとって最大の勇気というか、「倒れたあとに勇気をだして向かっていく」ことだったのではないかと思います。なぜなら、カオルにとってリョータとバスケの存在は、つらいことを思い出させてしまうものだと思うので。

なので、リョータもカオルも、ソータの先ほどのセリフを丸ごと体現していく物語なんだ、とぼくは感じました。

実際に、映画ではリョータから見ても、カオルから見ても、いつもふたりは背を向け合っているシーンが多かったように思いました。そのかわり、妹のアンナがいつもあいだに入っていたのだと思います。アンナは、いつも家族を前にすすめる潤滑油のような役割で、ソータにいちゃんの写真を飾ろう、と母・カオルに提案したのも彼女でした。

だからこそ、インターハイから帰ってきてリョータとカオルが海で話すシーンは、ぐっときました。

左手のポケットに手を入れて、兄・ソータのリストバンドがあることをしっかりとたしかめてから、母のいる浜辺へ歩いていくリョータ。もしかしたら、「リストバンドを手放す」ことへの覚悟だったのかもしれません。ある意味で、兄から勇気をもらっていたリストバンドで、それを手放すというのは勇気のいることだと思います。

カオル 「山王 どうだった?」
リョータ「強かった 怖かった」

痛みや恐怖に正面から向き合った息子に勇気をもらい、カオルもリョータというある意味で最大の「恐怖」の正面に立つ(リョータを見つめることはソータを見つめることだからなのでしょうか)。そのあと、おそらくソータが死んだあと、初めてリョータの正面に立ったカオル。だから、リョータの腕を触ることがぎこちなくて、「背伸びた?」ということばも出てきたのだと思います。

リョータ自身もいろいろなつらいことがあって、それを乗り越えようとインターハイでがんばった。その息子の勇気に触れて、母も一歩前にすすむことができたのではないかと思いました。そして、その母の勇気に触れて、リョータも「リストバンドを手放す」ことができたのではないかと想像します。

それはそうと、リョータとカオルは、たまに「左手首を触る」という仕草をしますよね。あれは、「つらくて逃げたいとき」のサインなんじゃないかと深読みしていました。

*  *  *


痛みを乗り越えていく親子の関係性の描写


7月31日の夜(リョータの誕生日でインターハイに行く前日)。カオルはリョータの部屋に入って「誕生日おめでとう」と言う。これにはそうとう勇気が必要だったと思います。けれど、部屋を出るとソータがいる。

そして、カオルは暗い部屋のなかで昔のビデオを観る。

そこには、リョータが家の近所でバスケをしていてソータがアイス?を食べながら現れる。それをうれしそうに撮影している母・カオルは「がんばれっ」と言う。そして、「いけ!リョータ」とカオルとアヤコさんが言って、リョータは深津と沢北のあいだを抜くシーンになるわけです(ぼくは、何度観てもBGMの効果もあいまってこのシーンがいちばん涙がとまりません)。

もともと自分(=カオル)はソータもリョータのことも応援していた。つらいときに、殻に閉じこもったりなにかを憎んだりことよりも、希望を持つことやだれかのためにと動き出すことで、すこしずつでも元気になれる。たしかに、人間ってそういうものだよなぁと感心しました。

そして、「ソータの代わりになれない」と言われていたリョータが、カオルの頭のイメージの中で(夫の遺影の前で泣いているシーン)ソータを超えて7番のユニフォームを着たリョータとして抱きしめるシーン。

あのときのソータよりも大きくなったリョータは、もうとっくにソータを超えるほど成長して、壁を乗り越えている。そのリョータにうしろから抱きしめられて、涙がでるカオル。このとき、なにかをボソッと言っている気がするのですが、「ごめんね」なのかなぁと勝手に想像していました。

ちなみにそのシーン、カオルの頭髪に白髪が混じっているのも憎い演出だなと思いました。女性キャラクターにあれほど繊細な白髪を描いたアニメは、過去にあったでしょうか‥‥。

*  *  *


映像作品としてこころ震えるクオリティー


〈音について〉

ボールの弾む音。バッシュの音。そのどれもがほんとうにリアルで、映画館が体育館のようでした。

そして、なによりBGM。上にも書きましたが、この映画で、何度観ても鳥肌が立つシーンが2つあり、そのいずれも音響効果やBGMがほんとうに、ほんとうに!すごいなと思います。

ひとつは、上に書いた終盤の仏前で泣き崩れるカオルをリョータがうしろから抱きしめるシーンです。

お琴のような美しい音。カオルの頬をつたう涙。すると、浜辺で手紙を読むシーンに戻る。リョータの声で「バスケつづけてよかったよ ソーちゃんが立つはずだった場所に あした 俺が立つことになりました」。そして、インターハイの会場に現れたカオル。ここで、ギターのリフサウンド。「いけ!リョータ」からの「ドリブルこそチビの生きる道なんだよ!」でついに深津と沢北のあいだを抜く瞬間、『第ゼロ感』。もう、何度観ても、ここだけはこころが震えます。

もうひとつは、試合ラスト。のこり20秒で、リョータのあごの汗がスローモーションで滴るシーンです。そこからカセットテープを急速に早回ししたような音で山王工業は猛攻、そのとき、バスドラムのような重低音がドンドンッドンドンッとどんどんリズムが速くなっていく。そして、沢北のシュートが空中に放たれる。そのとき、その心臓の音のような鼓動は止まる。しかし、生命の息吹が吹き返すようにその音はまたドンドンッドンドンッと速くなっていく。そう、もう走り出している桜木花道の足音とともに。ここからのラストワンプレーのゴールが入るまでのサウンドエフェクトは、神がかっていました。


〈絵について〉

人間の動き。姿勢、筋肉。もはやアニメとか漫画とかを超えた別の芸術かと思わせるほどの「生きている」かのようでした。

とくに、リョータが1年生のときに17番の背番号をつけてベンチでウズウズしているときの仕草、筋肉の動かし方、ひとりひとりの骨格、すべてが美しくて感動していました。山王工業の河田の立ち姿勢や筋肉の描写、走り方、声も含めて「ああ、こういう奴、いるいる」という気がしました。

キャラクターたちの表情がアップになるシーンが多かったですが、セリフがなくてもそれ以上の言葉や感情が伝わるほどの表情の描写力にも感服しました。心の機微のすべて伝わってくるようで、言葉を超えた表現力に刺激を受けました。

キャラクターの影と光の描写もとても綺麗でした。


〈演出描写ついて〉

・ソータが友だちと海へ出るとき
船の上の友だちは右奥のほうを眺めていて(向かっていくほう?)、そちらの空はリョータのいた背景の青空とは違って真っ暗な雲がたくさんあるのがわかりました。

・歌舞伎のお面
自分ではない誰か(兄・ソータ)になりたい気持ち、憑依していることの表現かと受け取りました。

・リョータのピアス
中学で転校したときに初めてピアスをしているリョータ。ちなみに赤いリストバンドは沖縄から帰って来てからしていて、アメリカでは両手首ともリストバンドはしていませんでした。

・亀
沢北がお参りするとき、亀が泳いでいて顔を出すシーン。「亀は万年 鶴は千年」ということわざの通り、長い目で見ている存在のシンボルとして亀が池から顔をのぞかせたのかと思いました。

・誕生日のケーキ
インターハイに行く前日の宮城家。ネームプレートを自分のを割って握りしめるリョータ。自分が生き延びてすみません、という思いの現れだったのでしょうか(そのあとの母への手紙ではその気持ちを書いてから消していましたね)。

・三井だけを狙うリョータ
三井とリョータの屋上でのケンカシーン。リョータは三井しか見ていませんでした。痛みから逃げてバスケを諦めたあの日1on1をした三井に対しての怒りだったのか、兄・ソータへの気持ちが混じっているようにも見えました。

・「ゴミみてぇじゃねぇか」
その三井との喧嘩のあと、雪が降ります。沖縄で育ってきて生まれて、初めて雪を見たのだと思われます。だから、(雪って)「ゴミみてぇじゃねぇか」というセリフだったのか、自分のすべてがうまくいかない気持ちもあいまったのかと想像します。

・赤木のフリースローのシーン
観客席にちゃんと魚住がいましたね。

・配役の必然性
リョータの声優はリョータとおなじ身長でおなじ沖縄出身だったり、最高のテーマソング『第ゼロ感』を歌う10-FEETも『スラムダンク 』連載終了翌年に結成していて10フィートはバスケットゴールの高さとおなじだったり、いろいろなキャスティングの部分でも必ずなにか「理由」というか「必然性」を感じます。

・山王工業の描き方
冒頭のオープニングテーマが流れて湘北メンバーたちがスケッチで描かれて歩き出す最高にカッコイイシーン。次に山王工業のメンバーが階段から降りてくる。この山王工業のメンバーたちの表情や立ち居振る舞いの演出や描写が素晴らしくて、「いかに彼らが最強か」という格の違いが表現されていました。一方の湘北メンバーたちの表情も、不安を一度乗り越えて腹のすわった表情なのも最高でした。

・ヤスの存在
この映画を通じて好きになったキャラクターが、ヤスでした。リョータとおなじ学年でおなじポジション。本来ならばライバルのふたりが、いつも一緒にいてリョータを陰で支えていたのはヤスでした。ポイントガードとしても堅実でいい選手で、「帰ってください」を正面から言える男に惚れ直しました。

・「漫画の表現」
映画のなかで何度も「紙に鉛筆で描いた」ような表現が出てきており、ここに井上先生の「漫画というものへの誇り」のようなものを勝手に感じていました。試合のラストのシーンや、最後の最後に沢北へ向かっていくリョータの顔もモノクロの漫画のようになっていたのが印象的でした。


*  *  *


改めて思う『スラムダンク』が教えてくれる「強いチーム」


・赤木が倒れて目を開けるシーン
湘北メンバー4人が赤木を見下ろしていて、「もう俺の願いは叶えられている」というセリフ。この「満たされている」というメンタル。「相手を倒す」ということよりも、今あるものに「感謝したくなる」メンタルこそが、いいパフォーマンスを出せる状態なのだと思います。

・敵を意識しない
おなじように、リョータや赤木などの湘北メンバーたちが恐怖を感じてしまっているときは、「敵」のことを常に意識していました。闘う相手ではなく、自分自身や仲間たちへと意識がフォーカスしたときに壁を乗り越えています。

・「湘北に入ってよかった」
74-76のシーン。映画でもきちんとあったセリフ、このベンチメンバーによる「湘北に入ってよかった」。試合に出ていない選手たちがこころからコートの上にいる仲間を信頼、応援している状態。さらに言えば、監督やコーチたちを真に信頼しているチーム。こういうチームが強いのだと思います。

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さいごに、「THE FIRST」について。


4回観ても(きっとまた観ます)、毎回初めて観たかのように汗と涙が止まらない映画で、いつも「初めて」の感覚でした。もはや26年前に連載終了した漫画とは思えないほどの、「初めて」のようなドキドキを味わえました。

また、映画を観たあと、また新しい気持ちで単行本の漫画を読めて「あのシーンこういう意味か!」など初めて読むかのような新鮮さを感じられました。

そして、4回目は5歳の息子とふたりで観に行ったのですが、うちの子にとって「初めての映画館で観る映画」がこの映画でした。ちなみに、息子はバスケットボールがほしいと一緒に買いに行って、そこで赤と黒のリストバンドも買わされました。東京体育館と駒沢公園の屋外ゴールでオトナに混じって遊んでいます。

ちゃんと「アニメ」だけれど、「ファンタジー」ではなく「リアル」のアニメ(まるで実写のような)。ほんとうに「最高」としか言いようのない素晴らしい映画をつくってくださり、井上雄彦先生をはじめすべての製作スタッフのみなさまに、こころからの「ありがとう」をお伝えさせてください。