ぼくらがスポーツから学ぶ理由。ビジャレアルC.F.とガウディ建築と20歳の少女。
初めてスペインを訪れた。
向かった先は、ビジャレアルというスペイン東部にある人口約5万人の町。地中海に面していて自然豊かで、広大なオレンジ畑があちこちに見える。町中にモザイクアートがあって、バラバラな形をした個が全体で調和することや、アートをたのしむことを重んじるこの町の風土を感じさせる。
今回の旅は、スペインのラ・リーガで戦うサッカークラブ「ビジャレアルC.F.」の佐伯夕利子さん(スペイン在住30年以上)が7日間のプログラムを組んでくださり実現した。世界的に見ても稀有な理念経営をおこなう同クラブの組織づくり、人づくりを学ぶ機会として、20名を超える日本の多様な分野で仕事をする人たちが集まった。
ぼく個人としては、企業やチームのブランドはどのようにつくられるのか、人がぐんぐん伸びる組織のカルチャーや育成の土台はどんなものなのか‥‥そんなことを学びたい動機で、羽田空港から約20時間の移動を経て、バレンシア空港に降り立った。
ビジャレアルC.F.、そして、そこに関わる多くの企業や人に直接話を聞いて、浮かんできたキーワードは、「答え合わせは『未来』でいい」だ。
誰もが「今」には意識を向ける。目の前にある危機にはすぐ手をつけたいし、報酬や評価は今すぐ手にしたいものだから。けれど、ビジャレアルC.Fの取り組みの話を聞き進めるうちに、「答え合わせは『未来』にやればいいんだよ」という価値観を感じた。
自転車に乗るときは足元を見るより遠くを見たほうが安定するように、長期的な視点で、選手やクラブ、従業員や地域、会社を育てていけば、「今」もきっとよくなる。そんな理念をもったクラブなんじゃないかと感じた。
そして、目先のみらず未来を大切にするその姿勢を大きく強く支えているのが、クラブオーナーの存在。オーナーであるPAMESA ceramica社は数百億円もの資金をクラブに投じて、ソフトとハードを充実させている。代々栄えてきたファミリー経営だからこそ、「急成長すること」よりも「永くつづくこと」を大切にできるのかもしれない。
「メセナ」というワードも教えてもらった。ウィキペディアによれば、「フランス語で『文化の擁護』を意味する。企業が主として資金を提供して、文化・芸術活動を支援すること」とある。ぼく個人としては、「たのしさのおすそわけ」と日本語訳したい。人よりも多くの富を持つ人たちが、より多くの人たちに不要不急のたのしさを分け与えるイメージ。
メセナを体現するオーナー企業の話を聞いていて、「お金ってわるいモンじゃないな」と思った。それだけの富があれば、これだけの意味のあることを実現できるのだから。お金が汚いのではなく、人間が汚いだけなのだ。お金をどんなふうに「稼ぐ」「貯める」かよりも、どんなふうに「使う」かで、その人の哲学が表れるのだろう。
そして、ビジャレアルC.F.の関係者たちの話を聞いていて、「ブランディング」というものは、「語れる人を増やすこと」なのだと考えた。
自分たちの組織がどんな想いでやっているのか、その背景にはどんなストーリーがあるのか、どんな未来のために今日の仕事に向き合っているのか。自分はなぜこの組織で働いているのか‥‥そういったことを、経営者から新入社員までが、自分ごととして社内外はもちろん、友人や家族にまで語れること。
どこでも言えるような使い古された言葉を並べた理念を掲げることでも、カッコいいロゴマークをつくることでも、新しいウェブサイトをつくることでもなく。その組織にいる生身のひとりの人間が、「人に語れる」こと。それが、ブランディングなのではないか、と。ビジャレアルC.F.で出会ったすべての人たちがそうであったように。
* * * * *
さて、数日間にわたりスペイン・ビジャレアルの地で、何度も「日本のすべての企業やチームがこうあったらいいのになぁ」と思う光景を目にしてきた。
同時に、すこし憂鬱な気持ちにもなっていた。
「スペインで学んだことを、日本でどう活かしたらいいのだろう‥‥?」
教育や法制度、文化など、そもそも前提となるものが国ごとに異なる。国境を越えても応用できるものはなにか。そんなモヤモヤが頭のなかに充満する中、夕利子さんが綿密に組んでくれた贅沢な研修・視察ツアーが終了した。
そこで、ぼくは、最終日前日の夕方から翌日昼までの自由時間に、バレンシアからバルセロナへ1泊の往復弾丸ツアーに行くことにした。新幹線で片道約2時間半。日本から行くことを考えればそう遠くない。ぼくの目当ては、昔からずっと憧れていた「サグラダ・ファミリア」だ。
バルセロナの駅に降り立つと、激しい雨だった。サグラダ・ファミリアはそこからタクシーに乗って15分くらいのところにある。
美しく古い建物が並ぶ街並みを歩いていると、その奥に天から降ってきたような塔が見える。ついに出合えた。これが、あのサグラダ・ファミリアだ。
第一印象は、建物というよりも、舞台のように感じた。一本の映画やオペラのストーリーの時間が、この動かない奇妙な造形物にまるごと表現されているかのような。
そして、しばらく眺めながら色々なことを思った。
文字があちこちに書いてあるんだな。果実みたいにカラフルなモチーフもあるんだな。単調な直線や四角の繰り返しがまったくないんだな。綺麗な部分と汚れている部分があるのは140年以上も造りつづけているからだよな‥‥
そんなことをあれこれ考えていたけれど、なによりも興奮したのは、この建築をつくろうと考えた人は、「遊ぶようにつくった」んじゃないか、ということだった。「やらされていない」とでも言うような。
こんなのがここにあったらどうだ?こんなことやったらすごいんじゃない?こんなふうに表現することもできちゃうかも?
まるで幼稚園児のような無邪気で自由な心、そう、「自由」を胸にこの建築をつくっていたんじゃないか。もともと社会に正解などなくて、誰かがその時代に都合のいいようにつくってきただけ。枠を恐れずに好きなことをやればいいんだよ、というメッセージをサグラダ・ファミリアから受け取った。
また他にも、ある考えが頭に浮かんできた。
それは、「どこまでが『自分』なのだろう?」ということ。
サグラダ・ファミリアの作者であるガウディはすでにこの世にいない。つまり、自分の手だけで完結させていない。彼が亡きあとも、時代を超えて、人びとがある意味で、ガウディの一部となっている。
この、「自分とそれ以外の境界線はどこにあるのか?」という問いが生まれた背景は、ビジャレアルで「メセナ」という考え方を学んできたこともおそらく大きく影響している。
ビジャレアルC.F.のオーナー家族たちは、「ファミリー」の境界線を、自分たちのみならず、社会全体に広げている。
我々ひとりの人間も、スポーツクラブも、そしてサグラダ・ファミリアも、地球という全体の一部であり、気の遠くなるような長い地球史の中の一瞬の存在。「自分がつくった」「自分だけのもの」ということに、どれだけ意味があるのだろうか? そんなことを考えてしまった。
* * * * *
いよいよ目的地であったサグラダ・ファミリアを見ることができて満足していたところに、もう一つ、不意に大きな出来事があった。
バルセロナの夜。
現在スペインに短期滞在しているメキシコ生まれの20歳の少女と知り合った。彼女は、今回の旅に一緒に来た人の友人で、我々のバルセロナでの夕食に合流することになった。
彼女は、ドがつくのほどの「日本好き」だった。具体的には、日本のアニメや漫画、フィギュアが大好きだと、つたない日本語で一生懸命に話してくれた。「どうして日本語がそんなに上手なの?」と尋ねると、「アニメをたくさん観てるから!」。
日本人であるぼくよりもずっと日本のアニメやイラストの文化について詳しかった。驚いたのは、嬉しそうに見せてくれた彼女の左腕には、「たまごっち」のタトゥーが彫られていた。「タマゴッチ、カワイイ!!」と熱弁してくれた。
彼女とサヨナラをして、宿泊先までの帰り道、ぼくは考えた。
異国の地スペインに「ある」ものがうらやましくて、日本に「ない」ものを憂いていた。けれど、日本には「ある」ものも、たくさんあるんだ、と。
どんな人や組織にも、「もっているもの」がある。それが、目に見えるものでも、そうでないものでも。
日常の外に出て、人から話を聞いて学び、「よし、がんばるぞ」と誓いを立てる。あとは、学んだことをそのままコピーアンドペーストするのではなく、その組織ならではの「ある」ものに目を向けて、それを活かすそれぞれのやり方を見つけることが大事なのだと思う。
自分のことは、自分でわからない。そもそも、「自分」とは、どこからどこまでなのだろう。
そんなことを考えるきっかけをもらえた、スペインの旅だった。