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三人寄れば文殊菩薩

三人寄れば文殊の知恵とは、たくさんの人が知恵を出し合えば良い案が浮かぶということではなく。大人数で行う、謎の朝礼や会議などのような、『船頭多くして船山に上る』ものでもなく。

一人でも、二人でもなく、三人のそれもごく普通の三人によって、歴史的な発案が飛び出してくるというたとえ話のことです。

発案者が天才でもなく、それぞれが専門家である必要もない。
もとはごく普通の人々が行動の結果、偉人として偉業を称えられる。

その様子がまさに、文殊菩薩のようであることから、このことわざが今日まで残されているのです。

天才はただの言葉であり、後から人が言っただけのものだ

私はいつもこう思っています。

ひょっとして、これまでの歴史的快挙といわれるものの多くは、ごく普通の数人の集団によってなされたのではないかと。

ある瞬間に、ある事柄について、熱意だけがある何の変哲もない三人が、ああでもないこうでもないと夢中になる。

多すぎず、少なすぎず、心が通じ合った三人が、心響かせあう。

この状態をこそ、文殊菩薩と呼ぶのではないでしょうか?

幼いころ、公園に幼馴染数人で集まって、遊びを生み出していたあの状況こそ、私たちの生きる本質であるように思えてならないのです。

つまりは、ごく普通の人々が集まって、各々好きに没頭できる環境を整えることが、これからの新しい時代の創生への近道ではないかと思う。

最小単位のグループ同士が共鳴しあい、お互いを補い合い高めあう。
響きあう先に新時代は待っているように思う。

そして最後に、仮に一人であったとしても、三人いるかのような状態に自分がなれるとすれば、他の誰かと無理に行動を共にせずともよいということ。

自分の体と心のバランスが整ってさえいれば、たとえ独りぼっちでも問題ない。であればこそ、孤独であることを寂しく思ったり、そのことに憤ったりしなくても大丈夫なのです。

いつも本当にありがとう。 これからも書くね。