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失うものなど何もない

 私たちはみんな、手ぶらで生まれてきました。服も着ていなければ、持ち物もなく、文字どおり素っ裸。あるのは命と、その命の宿る肉体だけです。もっといえば、心はまっさらだし、知識も経験も人間関係も、何もかもがゼロです。
 生きるとはつまり、ゼロの上にさまざまなものを増やしていくこと。ただ死ぬときはまた、生まれたままの姿に戻り、手ぶらで旅立っていきます。
<省略>
もっとも人間には、一度手にしたものは手放したくなくなる習性があります。これがやっかい。地位、権力、名声でも、友人、知人でも、お金でも物でも、何かを失うかもしれない危険に直面したときは、心の中でこうつぶやきましょう。
「本来無一物、本来無一物、本来無一物・・・・」

枡野俊明「小さな悟り」p213 三笠書房

本音は失うのは嫌

「大切にしたい」と思うものほど、失いたくない気持ちが強くなる。
物でも人でも、技術や知識や記憶も、組織や仕組みなど手掛けたものも
手放すことも、離れてしまうことも、失ってしまうことも嫌だった。
子供の頃は特に「自分のもの」と思うと執着していたと思う。
お小遣いもほぼなかった。
スーパーで「買って欲しい」と泣き叫んでも親は先に帰ってしまう。
裕福ではない環境で、やっと手に入れた時の嬉しさも大きいだけに、失うことを恐れ不安になる心理が強く育ったかもしれない。

「ちゃんと溺れなさい」

社会人になって新人の頃、努力したことや身につけたことを実践してうまくいかない経験で悩んだとき、スーパーバイザーから「ちゃんと溺れなさい」と言われ、その意図が理解できなかった。その時の心情は「溺れたくない」だったと思う。なんとなく伝えたいことを感じとっていたけれど、腑に落ちていなかったし、ちゃんと理解できていなかった。
数年後に実感でき、理解できた。
「溺れたくない」とずっと何かにすがる気持ちがあると、掴んでいるものを離そうとしないし、強く掴もうとしているほど、状況も変わらない。
思い切って掴んでいるものから両手を離して溺れてみた方が、新しいものを掴むことができる。そういうことだったけど、簡単ではなかった。
苦しかったけど、新人の頃に経験できて良かった。

失う経験を積み重ねて分かっていった

新人の頃の経験から学んだこともあったけれど、手にしたものや大切にしたい事を手放しすことは勇気がいるし、簡単ではなと思うことばかりだった。
自分の決断が揺らぐのを、相手の気持ちや周囲の状況を理由にして決断できなかったりすることも多かった。
決断できなまま、失うことも多かった。
特に人の命は、自分の決断に関係なく旅立っていく、その前に何ができるかといつも思っていた。
新人の頃から、社会的な偏見で人生のほとんどを病院で過ごした人の最後に寄り添うことがとても多かった。
自分で命を絶つ人もいることに、心が引き裂かれトラウマになるほど、自分の心に傷が残ることはなくなることはない。
「命あってこそ」と思う経験が増えていった。
身内も多いし、お世話になった大切に思う人が多いと、いろんな別れを経験した。
大切に思う人や物を失って悲しく思うけれど、大切に思っていたからこそで、ともに過ごした経験や思い出や言葉が宝物に感じる。
それが、支えになったり、学びになったり、目標になったりしてきた。


「本来無一物」でも残せるものはある

大人になり、計画的に欲しいものは手に入れられるようになった。
諦めずに根気強く取り組むと、実現することが分かってきた。
失いたくない気持ちは今もある。
けれど、物であれば大切に使い続けることで工夫できたり発見があったり、大満足するくらい使いきった経験が、次を選ぶ時の参考になる。

人であれば、ご縁に感謝し大切に想う。
距離感はそれぞれ、相手の気持ちもそれぞれ。
思い出してくれたら有難い。
求めてくれたら有難い。
相手の気持ちを大切に思い、自分にできることは協力する。
自分の思いも大切に、命あるうちに出来ることをする。

そして、次の世代へと伝え残せるものがある。
僕自身がいろんな方々の影響を受けたように。
「薫習」という言葉を思い出す。

残せるものがあると思うと、生きた意味があったとも思える。
「本来無一物」と思えるようになるのかもしれない。
まだ、思えてはいない_φ( ̄ー ̄ )

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