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クソみたいな世の中でも少しの面白さを探して

「何を書くより、誰が書くか。」
これは私がエッセイを書く時いつも感じていた。
芸能人のエッセイは特徴を知っているため親近感が湧くし、新しい一面を知るために読み始めることもある。
皆さん(自分も含めて)だって誰か分からない人間が書くエッセイなんて興味はないだろう。

そんなことをサウナに入りながら考えていると、
ふと気づいた。
「誰が書いたのか分かりやすくすればいいのか」

現在私は大学生だが
ありがたいことに来年の4月からエンジニアとして
働くことが決まっている。

「まずは22卒エンジニアで始めて、働きだしたら
社会人1年目エンジニアとかにしてみるか…」

だからといって、急に新しい人間になったりはしない。
物事を捉える視点が少し変わっただけだが、
一歩だけでも夢見る誰かに追いついたのだろうか?

「よし、考えがまとまったからサウナから出るか…
いや、あの人が出るまで我慢しよう。」

普段より多めに出た汗を流し水風呂に入り外気浴をしていると、ふと疑問が浮かんだ。
「いつも書いてるエッセイなんか暗いよなぁ…」

自分の思考をそのまま書き殴っている私のエッセイは
どんよりしている。
私はエッセイを書きたくて書くし、何より好きだ。
昔から不幸な人ほどクリエイティブに溢れていて、
不幸こそが何かを生み出す原動力になる。
こんなことを考えて、不幸を肯定してきた私は斜に構えて物事を見てきた。

しかし、冬の夜風と共に一つの考えが吹き込んできた。

「成功している人間が不幸を語るから、より不幸に見えるんじゃないか?」

誰かも分からない普通の私が不幸を語るのは
もしかすると誰かに認めてもらうための
自己満足なのかもしれない。
しかし、エッセイだ。自由に書いていい。
不幸を語ってもいいし、日々の気づきを書いてもいい。
美味しいご飯の感想を綴ったっていいんだ。

私はエッセイの軸として
「誰かのお守りになるようなエッセイ」を考えていた。何故だかこの日しっくりこない…
全然具体的じゃなくてふわっとしている。
もしかすると、書きたいものは違うんじゃないか?

整う寸前で閃いた。
クソみたいな世の中でも
少しの面白さを与えてくれるエッセイ

うんざりするようなニュースや誰かの悪口、
生きている方が辛いとも思える
クソみたいな世の中で私たちは生きている。
不幸を探すのは息を吸うくらい簡単だ。

それなら、私はどんなにクソみたいな世の中でも
少しの面白さを探して文章にすることから始めよう。
大好きなラジオやエッセイのように

それでは素敵な一日になりますように!

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