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「何を言うかより誰が言うか」ということは分かってるけども...

「何を言うかより、誰が言うか」

この言葉が正しいと思うことが増えた。
私が書いているエッセイなんて、言うてしまえばポエムみたいなものだ。正しい、真っ当なことを言っていたとしても顔出しもしていない、何者かも分からない人間の言葉は薄い。

もし、自分のエッセイをそっくりそのまま有名人の誰かが言ったとすれば、よし悪しは関係なく多くのコメントやいいねが増えるだろう。

芸能人が書いたエッセイだって、その人が書いたからこその意味がある。その芸能人がどのような人間なのかある程度知っているからこそ響くものがあるだろう。

すると、何者かも分からない自分のエッセイに存在価値はあるのだろうか。
正直なところ、意味はなくないけど限りなく無いに等しいのだろう。

Instagramの投稿はあんまりやる気が出ないし。
twitterのツイートは記事を投稿した時しかしていない。
なぜnoteの投稿は毎週続いているのだろうか?
それは、写真では表せなくて140文字でも表せない感情があるからだ。

noteで文章を書き続けることは、自己満足の世界になるのだろう。
文章を書くことが好きだからしょうがない。
物事が起こる理由を考えて肯定しないと受け入れられない。考えることが多すぎて整理しないといつの間にか思考の海に沈んでしまう。考えすぎてしまって、周りと合わせて生きていくのが苦手という人が少なからずいると信じている。
全員に伝わらなくてもいいから、もし共感してくれる人が少しでもいればそれだけでとんでもなく嬉しいんだ。

私の言葉をこの日本中の共感してくれるであろう人に
届けるにはまだまだ私という存在の認知度は無いに等しい。だからこそ、記事を書いて投稿をし続けて
私がここに存在していることを発信し続けなければならない。その過程で、私という存在が作られていき、認知度が上がるにつれて「誰が言うか」につながるのだろう。

今はまだ、誰でもない私は、誰かになるために文章を書いているのか?
私は、何者かになろうとして文章を書いているわけではない。しかし、届けるためには何者と分かっていた方が届きやすい。だから、何者かになるために文章を書いているのか???

あぁ、また思考の海に潜ってしまいそうだ。
もがけばもがくほど深くに沈んでいく。

こんな考えをしてしまう人と話して答えを探したい。
そんな人を探すためにも私は文章を書くのだろう。
今のところは、その考えで陸に上がることにしよう。

それでは、素敵な一日になりますように!

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