和田唱の話がしたい - TRICERATOPSの和田唱がソロ活動で聴かせててくれたもの、観せてくれたもの

和田唱さんがこの文章に対してツイートをしてくれていて、二十年来のファンとしてはこみあげてしまうものがありました。じぶんの大好きなミュージシャンについて書いておきたいという動機で記したのだけど、対象とした方に読んでいただけたというのは、この文章の望んでいなかったひとつの達成なのかもしれません。
音楽文掲載日:2020/2/7


TRICERATOPSのギターボーカルである和田唱がソロ活動をはじめるということを聞いたのは一昨年のことで、そのときはちょっと驚いたことを憶えている。
もちろん、ロックバンドのボーカルがソロで活動をするというのは珍しい話ではないのだけれど、トライセラは1997年にデビューして2018年までずっと走り続けてきたバンドだったから、そういう動きはないんじゃないかなと勝手に思ってしまっていたのだ。
バンドでアルバムを11枚をリリースして、しかもそのほとんどの曲で作詞作曲をつとめていた彼が、ひとりになっていったいどんなアルバムをつくるんだろうか、そしていったいどんなライブをするんだろうか。
しかも、ソロ活動のはじめの一歩となるソロアルバムのリリースのまえには大半の楽器を和田唱ひとりで演奏しているという情報も入ってきたからまた驚いて、その出来映えは想像もつかなかった。

 
そうこうしているうちに2018年の秋を迎え、和田唱の初のソロアルバム『地球 東京 僕の部屋』がリリースされる。
発売日にCDを買って聴いて、また驚いて、そして同時になるほどなあとも思う。驚いたのと合点がいった理由、それはこのアルバムがソロで発表する意味にとても満ちあふれている作品なのだと、すぐに思えたからだった。

作詞者と作曲者はもちろん和田唱で、それはTRICERATOPSとおなじなのに、バンドとソロではアプローチがぜんぜんちがう。
ほぼひとりで録音したという演奏は音数が少なくシンプルで、彼が得意としていたエレキギターはなりを潜めている。アコースティックギターを基調に、ベースとドラムは派手にふるまわず曲に寄り添っていて、そこにシンセサイザーやピアノやコーラスによるハーモニーで彩りを加えるアレンジになっていた。
TRICERATOPSが守りつづけ、磨きつづけてきたスリーピースのロックバンドというある意味制約のあるフォーマットから解き放たれて、例えば外部のミュージシャンを招聘して音の厚いロックを鳴らすという方向性もあったのではないかと思うのだけど、でも彼が選んだのは自身による演奏でささやかにひかえめに、そして温かくユニークに楽曲を響かせるというやり方だった。

加えてつよく感じたのは、彼がつねづね好きだと公言してきたマイケル・ジャクソンやディズニーをはじめとする映画音楽への影響。
3曲目の「矛盾」はとてもマイケル的なビートでついリズムの合間にポゥッって合いの手をいれたくなるし、7曲目の「アクマノスミカ」の間奏はチャーミングな口笛が鳴り響いてどこかコミカルなディズニー的雰囲気を帯びている。
バンドの作品ではそこまで感じさせなかったこれらの非バンド音楽的なルーツへの影響がこのソロアルバムではより色濃く感じられて、なるほどほんとうにこれは"ソロ活動"なんだなと思わずにはいられなかった。

バンドにはもちろんそれぞれのパートにメンバーがいて、作詞作曲とボーカルをひとりのメンバーが担っているからといっても、それは決してひとりの音楽や作品にはならない。バンド全体の意志や決定がそこにはかならず込められていて、その結果として全員の、バンドの作品になるのではないかと思っているし、その考えはこの和田唱のソロアルバムを聴いてより確かなものになった。
そして、この作品にふれて和田唱のこともTRICERATOPSのこともより理解できるようになった気がする。ソングライターでギターボーカルの和田唱がバンドになにをもたらして、なにをもたらさないでいたか。またベースの林幸治やドラムの吉田佳史がいかに強靱で存在感のあるリズムをもらしていたかが、よりはっきりとわかった気がする。

そして、和田唱の歌もいつもよりさらに優しい感じがするだろうか。力強く歪んだエレキギターが響かないなか、バンドよりもさらに彼の歌がちかくに感じられる気がするし、そう感じるのはより個人的なにおいのする歌詞によるところも大きいのではないかと思う。
トライセラでも歌詞はけっこう個人的なものだったと思っていたけれど、このソロアルバムでの歌詞はよりつよく個人をさらけ出さしているように感じられたので、そんな歌詞を紹介してみたい。

原宿あたりを探索したら 地下鉄に乗りたいな
渋谷で降りたら あの映画を劇場で観れるかもな
だけど僕はこっそり 生まれたアパートの下まで行くだろう
点いてる明かりを ただただ見つめてるだろう

「1975」

曲名はおそらく和田唱の生まれ年を意味していて、その1975年にタイムスリップできたなら、生まれた育った町を見て回りたいと、ごくパーソナルな望郷の想いを綴っている。

表裏なさそうって評判
割とみんなにもらってるんだよ普段
謙遜しつつ受け入れてるけど 表も裏もある

年がら年中明るくないし あのバンドの悪口も言う
でもパブリックイメージ 壊したくないし 濁す僕は
矛盾矛盾矛盾矛盾

「矛盾」

こちらもごくパーソナルな心情を語っていて、なかなかここまで包み隠していない歌詞もないなと思う。だから、聴いたり読んだりするのがちょっとたのしい。

取り上げた歌詞のほかにも、どの曲も正直だったり親密だったりする言葉がならんでいて、ほんとうに個人的というか、バンドとのちがいを思い知らされる。思い知らされるし、だからこそこのソロ活動の意味というようなものがはっきりくっきりと伝わってきた気がした。

このように気づきの多かった和田唱によるはじめてのソロアルバム『地球 東京 僕の部屋』にはすごく素直で優しい手触りがあって、とてもよく聴く一枚になった。
でも一方でこうも思う、この弾き語りともバンドともつかないユニークなサウンドの曲たちは、ライブではいったいどう表現されるんだろう?

 
そんな和田唱によるソロ活動でのライブを観ることが叶ったのは、アルバムのリリースから1年すこしが経った2019年の暮れのこと。
『一人宇宙旅行 ~アイ ココロ 経由編~ 特別公演』と銘打たれた自身2度目のツアーのファイナルは、マイナビBLITZ赤坂のフロアの真ん中にステージを配置して、その周りをオーディエンスがとり囲むというその名の通り特別なもので、なんというか空間のどまんなかにひとりきりになるライブにて、その"ひとり性"がより際だってしまうようだなと思った。
そして舞台にはアコースティックギターが2本にエレキギターが1本とキーボードが1台、でもこれらの楽器を操るのはひとりなんだろうなと思うとちょっと胸が高まる。そこにはもちろんベースもドラムもなくて、さんざん観てきたTRICERATOPSのライブとは確実にちがうんだというということがわかる。

軽快な足取りでステージに立った和田唱はアコースティックギターを抱えてゆるやかなテンポの新曲をまず弾き語ったあと、続いてトライセラの代表曲のひとつ『GOING TO THE MOON』を演奏しはじめてちょっと驚く。バンドの曲を演るのは予想できていたけれどこの曲は弾き語りが向く気がしない、でもすごかった。
僕は和田唱というひとは歌もギターもとてもうまいミュージシャンだと思っているのだけれど、まずギターのうまさでもってしてギターリフが主体のロックナンバーを見事にアコギ一本で表現していて舌を巻いてしまった。しかも弾き語りなのにギターソロさえもそのまま巧みに弾ききってしまうのだから参ってしまう。

続いての「Harajuku-Crossroads」では観客にコーラスやコールアンドレスポンスを多めに要求していて、これはなんだかソロでの音数の少なさを逆手にとっているかのよう。
この日のライブにて和田唱は360度取り囲むオーディエンスに対して、曲に合わせて席を立たせたりクラップや合唱を要求したりするのだけど、とその様子がなんだかたのしそうで、こちらもそれに応じるのがたのしかった。
ソロというのはほんとうにたったひとりなわけで、より観客とのやりとりがダイレクトの一対多になるのだということも感じたことのひとつだったし、和田唱もこの形態に臆することなく、観客の視線や反応をたったひとりで受け止めて、それをたのしみながら噛み締めながらライブを進めているようだった。

次に披露された「矛盾」の演奏はこのソロのライブでも特筆すべきもののひとつだったように思う。なのでこのおもしろさをなんとか説明してみたい。
まず和田唱がギターでリズムを刻むようなフレーズを弾いたあと、その手を止めてもギターが鳴り続ける不思議さにちょっとした歓声があがる。
この演奏せずとも音が鳴り続ける仕組みはループペダルという機材によるもので、要は"その場で弾いたフレーズを足でペダルを踏んで録音しそのまま再生しずっと鳴らしてループさせる"という芸当を機械の力を借りてやってのけているのだけれど、このループを作成する経過も見事だった。

アコースティックギターのボディを叩いてドラムのバスドラムに相当するドン、ドン、ドンというリズムを録っては即再生。
オクターブを下げる機材を用いてベースに相当する低音をアコギから出して録っては即再生。
アコギで和音を奏でて録っては即再生。
さまざまな音程のコーラスを録っては即再生。

こんな風に手際よく音を構築して即席で伴奏をつくっていく様はエンターテイメントとしてもとてもおもしろいし、どの曲のオケをつくっているのかわかった瞬間はとても気持ちがいいし、それになんだかレコーディングの現場に立ち会っているようなたのしさがあった。
もちろんループの作成には失敗は許されなくて(なぜなら失敗すると失敗した演奏がえんえんと再生されてしまうから)、観ていてもちょっとした緊張感が伴うのだけど、和田唱はその緊張感をもたのしんでいるように、録音がうまくいくとちょっとしたお茶目なポーズをとって成功を伝え、観客の拍手を誘うのだった。
ループペダルを用いて伴奏を同時に鳴らして演奏するというやり方は、海外でもたとえばエド・シーランあたりが活用している手法なのだけれど、こういう新しいものにもアンテナを張って実践するチャレンジ精神と、その経過をもエンターテイメントに昇華させる様は、とてもこのひとらしいものだと思う。

このループペダルでの特殊な演奏はほかにもTRICERATOPSの曲である「スターライト スターライト」や「I GO WILD」や「Raspberry」で披露されて、おなじみの曲の新しい表現に観客も僕もおおいに沸いた。
もちろんループペダルはどんな楽曲でも効果を発揮するわけじゃない、たとえばコード進行がめまぐるしく変わる曲ではその効果はあまり見込めなかったりする。でも、和田唱がトライセラでのデビュー当初からこだわっていたギターリフを基軸とする作曲方法は、フレーズをリフレインさせるループペダルとの相性がきわめて抜群で、それによって彼はひとりになったことで新しくてユニークな表現を手に入れることができた。それはこのソロ活動での大きな収穫だったんじゃないかと思う。

自曲の弾き語りやループペダルによる演奏のほかにも、この日のライブではエレキギターでのカバー曲の独奏、TRICERATOPSの名曲(と、じぶんでも云っていた!)「僕らの一歩」のピアノでの弾き語り、そして影響を受けたという映画音楽のメドレーのギター弾き語り(「Moon River」や「Singin'In The Rain」や「My Favorite Things」や「Over The Rainbow」などなど)と、さまざまな楽器を用いて自身の好きなものやルーツを辿りながら高い演奏力と歌唱力でもってしてそれを表現していた。
それはTRICERATOPSのライブとは確実にちがうもので、新しさも懐かしさもあってより自由であったし、よりひとりだった。
 

この日、ひとりきりで歌う和田唱を観ながら僕は、ごく個人によるごく個人的な表現を、しかしひとりよがりにせずに、ショーとして成立させ集まったオーディエンスをたのしませるなんてことができるんだなと思った。
そして、音楽を聴くという行為は、とどのつまりそれをつくったひとにふれる行為なんじゃないかなって、大げさかもしれないけどそう思ったし、そんなことを思わせてくれるくらい、この日のライブは素敵なものだった。

十代のころからずっと聴いてきたTRICERATOPSの和田唱のソロアルバムを聴いて、ライブを観て、彼はそのソロ活動にて新しい一面をみせてくれた。みせてくれたし、僕がいままではそこまで気づけていなかったであろう、自分自身だけをさらけだして表現するというソロ活動の魅力を教えてくれた。
だからこそ、これからのソロ活動も、TRICERATOPSの活動も、両方とももっともっとたのしみにすることができる。
なので、好きなバンドから好きなミュージシャンがうまれて、好きな音楽が倍になってしまったような、なんだかそんなお得な気もしている。

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