ロックバンドがまた始まるために。 - 『GRAPEVINE FALL TOUR』神奈川県民ホール公演を観て

2020年の冬の終わりくらいからは避けて通りづらい大きな話題があり音楽文が書きにくい感じになり投稿ペースががくんと落ちてしまいます。ライブがなくなっても音源について書いてみたりすればいいわけなのに、なんか気力や関心が奪われた感じで指が進まなかった時期でした。その状況でなにを書けるか考えるべきだったといまは思うのですが。
音楽文掲載日:2020/11/12


手指をアルコールで消毒して、チケットはじぶんでもぎって、座席はひとつ空けでとなりに座るひとはいない。
2020年11月1日の日曜日、GRAPEVINEのツアー「GRAPEVINE FALL TOUR」は新型コロナウイルス感染症拡大予防のガイドラインを遵守する形で、その初日を神奈川県民ホールにて迎えた。

曲がはじまるまえなんだけどとても印象に残っていることがあって、それは客電が落ちてメンバー五人が登場したときの拍手だった。
こういうタイミングでの拍手はあたりまえといえばあたりまえなのだけど、その拍手はなかなか鳴り止まらずに次第につよくくなっていって、どこか特別なものに聞こえたし、僕もそういう拍手をステージに送った。
もちろんこういう拍手になった理由はわかる。この拍手は、春先から生活もライブのあり方も確実に変わってしまって、予断を許さない状況は続きながらも対策を講じたうえで、やっと少しずつだけど取り戻すことができたこの場を讃えるような、そして再会や再開をささやかに祝うような熱と想いのこもった特別な拍手だった。

 
そんないささか高揚した雰囲気をまとったままライブははじまる。
ボーカルの田中和将がギターでコードを刻みながら歌うのは「HOPE(軽め)」、初期の気怠げなナンバーはのっけから意表をついてわくわくさせてくれる。このツアーはリリースとは関係のないものなので、セットリストの予測ができないのもたのしみのひとつだった。
続いてはささやかな祝祭感が漂う「Arma」が披露される。この曲の歌詞、この日のライブではちがった聴こえ方をしてしまう。なんてことをつい思ってしまう。

このままここで終われないさ
先はまだ長そうだ
疲れなんかは微塵もない
とは言わないこともない
けど

「Arma」

そのあとのMCにて田中和将は、やっとバンドとして再スタートが切れたということ、発声だけはご遠慮いただいて他は自由にたのしんでほしいということ、そしてバンドとしてライブができてとてもうれしいということを語る。
春の対バンツアーも、そして出演があったかもしれない夏のロックフェスも流れてしまい、やっと一年ぶりにライブをすることができて、そのことを"再スタート"と表現した。それは休みなくライブを着実に重ねてきた彼らが実感するところだったのだろうと思う。
そういった背景があってか、この日の田中和将はいつものあまじゃくの代表例のような感じはひかえめで、やっとライブができたそのよろこびを素直に噛みしめているように見えた。

もちろんそれは観る側としてもある意味ではおなじで、個人的には9ヶ月ぶりのライブ鑑賞ということもあり、たしかな渇望感みたいなものがそこにはあった。
奏者が楽器を奏でて音はマイクからスピーカーへ、そしてスピーカーから増幅された大きな音は空気を振るわせて直接耳に届く。目のまえのバンドが鳴らすこの大きな音を聴いて、やっぱりこれだよ、これなんだよ。みたいなことを思う。

音源よりさらに不穏さが増していた「豚の皿」、ボーカルの高音が冴えわたる「また始まるために」、反復するリフと軽妙な皮肉が愉快な「報道」。
長いそのキャリアでの様々な時期のミドルテンポの曲がずっと続いていく。
ロックバンドとしてイメージされやすい性急なビートにGRAPEVINEはあまり頼ってはこなかったように思う。速い曲はライブやフェスで盛り上がるわけなのだけど、彼らはその力は借りなかったし、そこは目指してもいないようだった。
逆にごまかしが効かなくて、でも曲に演奏の妙味や想いをいちばん乗せやすいミドルテンポの楽曲をひたすら磨きに磨きつづけてきたし、そこで勝負ができる演奏力と表現力がこのバンドにあるということは、ライブで聴くと改めて感じるとることができる。
それにこのテンポ感で貫くスタイルは着席しての鑑賞と相性がいいし、なにより速くも遅くもない曲は、うまくやれば没入感がすごいのだった。

 
続く最新の曲「すべてのありふれた光」のクライマックスでは下記に引用した歌詞の最後の二行のところで、田中和将は唄いながら両の手をひろげてみせる。

何も要らない
何にも無くても 意味が無くても
特別なきみの声が
聞こえるのさ 届いたのさ
きみの味方なら
ここで待ってるよ

「すべてのありふれた光」

アンチテーゼや皮肉をならべ尽くしながらここまできた彼が、こういう仕草をみせるとどきっとしてしまう。斜に構えるのも一周するとこういうこともできるようになるのかもしれないし、この日はやっぱりちょっと素直になっていたのかもしれない。
ライブはただバンドが演奏をし歌を唄うだけじゃない。こういう演技的な表現は音楽の話からはすこし離れてしまうのかもしれないけれど、でもライブはただ録音の再現を耳で聴くということだけではなく、表現を行うひとがそこにいて、それをあまさず観るものだということも、再認識させてくれたような感じがした。

浮遊感と土くさいギターが入り交じる「The milk (of human kindness)」は近年の曲によく見られるジャンル不定な独自のものなのだけど、バンドはその演奏をとてもたのしんでいるように見えた。そして続いてはキャリア初期の曲たちがならんでいく。

この曲まで聴けるとは思わなかった1stシングルの「そら」、寒くなってきた季節に聴けたのがほんとうにうれしかった「Our Song」、切実さと開放感が同居する「here」。
バンドがまだ若かった頃の曲をいまの力量で聴けるおもしろさがあったし、はじめからどこか老成した達観や諦観を備えていた初期の曲たちは、現在のGRAPEVINEが演奏してもまったく窮屈な服を着ているような感じがなく、かつ曲自体の魅力がすこしも色あせていないということがわかる。

 
あと五万曲やる! というMCからライブはひねくれたクライマックスに突入した。
ホーンとやっぱり皮肉が冴えわたる「Alright」、オルタナカントリーの佳曲「片側一車線の夢」、ただでさえ名曲なのだけどライブの魅力は曲のイメージを増幅させる照明の演出にもあるのだということを教えてくれる「光について」。
これらの曲を聴いていて、僕がこのバンドを好きになってからゆうに20年以上が経つということをふと思い出す。なぜかというと以下に引用しているように、時のながれについて彼らが唄っていたからだった。

いま大人になって
或いは親になってさ
何もかもが全部遠く感じてる

「Alright」

行かないか
かつてのように若くないのがおっかないが
失った夢の続きを見るのだろう
ろくでなしの夢を

「片側一車線の夢」

人の流れ眺めながら
時計をこの目で確かめるが
季節は変わり始めていた
いつのまにか

 「光について」

とくに近年の曲は時を経てのなんだろう、ちょっとしたくたびれ感が目立つのがお茶目でもある。
バンドを第一線で二十年以上続けることは並大抵のことではないと思うし、規模は異なれどこちら観客席側の僕としても二十年以上このバンドを好きで聴き続けているというのは、それは決してみじかくはないわけで、ちょっと不思議なものだなとも思う。
二十年、聴く側としてもバンドにもいろいろあっただろうし、いまもまさにお互いいろいろあっている最中なのだろうけれど、時のながれや変化があってもこうやって音楽を続けてくれているからこそここでこうして会えている。唐突だけどこのときは、そのことに感謝したくなった。

僕らはまだここにあるさ

「光について」

つづいてベースを筆頭に演奏のトリップ具合が白眉な「CORE」、やっぱり選曲にどこか意味を感じてしまう「超える」にて一年ぶりに開催できたライブはその本編を閉じる。

ばかでかい音量で曝け出すつもりだ
その答えだって いっそひとつだと思えばいいね

「超える」

アンコール。このバンドの叙情系曲の頂点的に立つような「指先」に続いてはバンドのインプロビゼーションが炸裂する「NOS」が披露されて、GRAPEVINEは演奏が巧いし、その巧みさ故に演奏がたのしいんだろうなということがこういう曲では見てとれる。
このBECKが演りそうな曲を聴きながらアルファベットのMの形に陣取ったメンバーを順に見やりつつ、僕はこのバンドがどういうバンドなのかということについて考えていた。

ドラムの亀井亨が多くの曲を書きお得意の三連のフィルでパートのあいだをつなぎ、ベースの金戸覚が堅実にそしてときにアグレッシブにバンドを引っ張るようにローを支える。
ギターの西川弘剛が寡黙に曲に溶け込むようなギターを鳴らし、キーボードの高野勲が鍵盤のみならずエレキギター、アコースティックギター、マラカス、シェイカー、果てにはテルミンと様々な楽器を持ち出して曲に最高の彩りをもたらす。
そのうえで、ギターボーカルの田中和将は伸びやかに唄いたのしげにギターを奏でて、国内外のロックミュージックの歴史を引用し受け継ぎながら煮詰めまくってGRAPEVINEの音楽はできあがっていく。
突飛なことや特殊なことはせず、ただただ古今東西のロックを見つめ続け再構築をし続けた果てに、そしてただただリリースとライブを続けた果てに、このひとたちはいつのまにかこの国のロックシーンの中で特異なポジションに立ってしまっていたようだった。

着席のまま聴くのがこの曲だけは歯がゆかった「ミスフライハイ」、そしてこの先の予定が決まっていないので伝えられることがないのがもどかしいけれど、次のアクションをたのしみに待っていてほしいと告げるMCのあとに披露された最後の曲は「真昼の子供たち」。
この爽やかなピアノが牽引する曲中で、田中和将は神奈川県民ホールの一階、二階、三階の半分が空席になっている客席を順繰りにまんべんなく見渡していた。そこにはライブの終わりを名残惜しみつつ、ひさしぶりに集まったオーディエンスに感謝をするようなやさしい表情がうかんでいた。


開演時とおなじくらい長い拍手が響きわたり、規制退場の順番にそって会場をあとにしながら思う。
もちろんこれからすぐにライブがいままでのように完全完璧に再開するわけではないし、解決にむかうまでは結構な時間を要することと、それまで演る側の活動も観る側の生活も持ちこたえられるのかということについて考えるとやっぱり気が重くなる。
でも、このライブは個人的には希望がもてるものであったというのは確かなことだし、それにこうやってロックバンドの音楽にじかにふれることは個人的にとても大事なことなんだってつよくつよく思わさせられた。
それとこのライブでは、バンドの方も観る側とおなじようにこの状況への危機感と、それをすこしだけど打破できたよろこびを感じていたということを窺えることができた気がしていて、勝手な解釈かもしれないし、このおなじさをよろこんでいる場合かという話ではあるのだけれど、そこはちょっとうれしくもあった。そんな、すこし特別なライブだった。

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