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茶会記PLAY-ACT vol.9

わたくしはじぶんを芸人だと思っておりまして、それが何故かというと、山口椿さんから「あなたの芸はたいしたものですよ」と褒めていただいたありがたさが発端でございます。

サテそんなわたくし、最近は演じる機会をいただくこともあります。
ということで、
明日明後日は、茶会記PLAY-ACT vol.9において、演目「みるみられる」に出演いたします。出会いと別れの会話劇となっております。
わたくしは、明日12/21 17:00/20:00、明後日12/22 17:00に出演です。‬
‪詳細はこちらです。 https://facebook.com/events/728091254335709/?ti=icl‬

さて、わたくしがぐだりぐだりとお話しするよりも的確なみるみられる考察を、共演いただくYASUCHIKAさんが書いておられましたので、ご本人の許可のもと、転載いたしますね。
当日券もございますので、是非よろしくお願いいたします。
以下、YASUCHIKAさんのTwitterより。

生躰研究家としては、「みる」とは「ふれる」ことと変わらない。
なので、「みるみられる」は「ふれるふれられる」と言い換えることが出来、その変換が遜色なく感じられる条件が時空間を共有することであり、デジタル媒体は、その感覚変換と相互関係が断たれてしまう。(ライブ映像の場合は別)

故に、「みるみられる」は舞台に於いて、発生し(易く)体験出来ることを指している言葉であると解釈している。

「みる」を「ふれる」に変換した場合、全く違う世界が立ち現れることは想像に難しくないとは思うが、
少し想像してみて欲しい。

舞台に於いて客席から舞台を「みる」ということが、「ふれる」に変換されうる時、客席は舞台の何にふれえるのか?または、ふれているのか?
また俳優は舞台の中で何に「ふれ」「ふれられて」いるのか…
そして「ふれる」という行為は、
否応なく「ふれられた」側も感覚することを思い起こして欲しい。つまり「ふれるふれられる」は相互関係にならざるおえず、高密度のコミュニケーションまたは「繋がり」を生じさせる可能性が高い関係を結べるのである。

これだけでも随分と「みる」と「ふれる」で関わり方が変わって来るのだが、これはこの話のさわり…で、ここでやめておこう(^ ^)
ということで、
「みるみられる」ということを、このワークショップ&クリエイション、また作品のタイトルになっていることを、私の解釈も交えて、舞台の客席に座って頂けたら、また違う味わいが出るのではないかと思うので、御来場頂けたら幸いである。

そして、今回「ふれる」対象の一つとして、何に作・演出家の上田がフォーカスしているのかは、ここでは明言しないでおくが、
ひとつのヒントとして、
上田が今回のワークショップ&クリエイションの始まりに言った言葉の一つに、

「想像力の向こう側」
と言ったことは、ここに記しておこうと思う。

吉本隆明の「みる、みられている」を引いて展開しようとも思ったが、
こりゃ、骨が折れると思い、思いとどめておいた(≧∇≦)

共通しそうなところもあるし、全く違う視点もあるので、面白いかと思うか、別の機会があればww

では、「みるみられる」ならび茶会記PLAY-ACT vol.9よろしくお願いします

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