珈琲ミルク

 美術館にいこう、と言われて断らなかったのは自分でも意外だった。誘った当人の真弓も少し驚いているようだったから、恋人が死んで2週間の女性が友人に美術館に誘われた場合、断るのが一般的なのだろうと思った。きっと、暗黙のルールがあるのだ。きっと、恋人が死んでから数ヵ月間は美術館にいってはいけないルールがあるのだ。でも、わたしは美術館にいった。ルールを破ってしまった。だからどうということはないけれど。ただ、わたしの胸中ではルールを破ってしまった背徳によるちょっとした興奮と、自分の無軌道な空想で生まれたルールとそれを破ったわたしとその共犯者への好感と蔑みとが渦巻いていてなんだか少しだけ疲れてしまう。目の前の真弓は今さっきまで鑑賞していたマグリットの奇妙な絵についてつらつらと感想を述べていて、美術館の目と鼻の先にあるこのカフェでは低い声のほどよいガヤと静謐なクラシック音楽が上品な空間をつくっている。

「あの絵はずるいと思うんだよねえ」

真弓は顔をしかめていう。くりくりした大きな瞳をもつ真弓が顔をしかめるとなんだかおかしい。真弓なりの険しい表所をつくっているつもりなのだろうが、どうしたって小動物じみた平和ぼけの印象から抜け出せていない。本人が思っている表情と実際の表情とのギャップはきっと大きいだろう。それに気づいていない真弓が可愛らしく思えて頬がゆるむ。

「え? なに? どの絵?」

「話、きいてた? マグリットの『呪い』だよ」

「あ~、あの死体がだんだん腐っていくやつ?」

「ちがうよ。っていうか、そんな絵あったっけ? わたしがいってるのは青空の絵」

「え? あ~、あれね」

「もう。話、聞いてなかったんでしょ。パンフレットにも載ってるから、みてよ、ほら」

真弓から手渡されたパンフレットで『呪い』を探す。呪い、呪い、ああ、これか。

「たしかにね。この絵はずるい。おもしろすぎる。上半身が魚になる呪いとはね」

浜辺に打ち上げられて力なく横たわる半魚人。いや、半魚人というより、やはり上半身が魚といったほうが正確だろう。普通の人間の上半身だけがスーパーで一尾あたり数百円で売られているような魚とすり替わっている。シチュエーションも妙だし、スケール感も妙だ。人間の上半身に合うように本来小さな種の魚を大きくして描いている。人間の上半身が魚、とはユーモラスな着想のようだが、魚部分の描写が写実的であるためか観る者に不気味な印象を与えて不安にさせるような絵だった。

「ちがうよ。その絵の下にある絵が『呪い』。その魚の絵はちがう作品だよ」

「え? ああ、うっかり……」

あれ? じゃあ、これが……。そうか。確かにずるい。

「真弓がいってた意味がやっとわかったよ。これは確かにずるいね。この絵、タイトルが『呪い』じゃなかったらスルーしちゃうと思う」

その絵はただ額縁いっぱいに青空が広がっている絵だった。まるで童話にでもでてくるようなふっくらとした雲がいくつか浮かんでいる。


 別れ際、真弓の心配そうな顔をみて、ああ、気を遣わせちゃってるんだな、と思ったから、普段はあまり見せないようなとびきりの笑顔で見送ってやったつもりだったけど、真弓は心配そうな顔のままだったから、きっとわたしは笑顔をつくるのに失敗しちゃってたんだと思う。そりゃあ、真弓も気を遣うと思うよ。わりと最近に恋人と死別した友達とどう接したらいいかなんてわからないと思うよ。わたしだってわからない。恋人と死別した後に友達とどう接したらいいのかなんてわからない。もしかして、だれとも関わらないのが正解? でも、一生だれとも接点がないわけにもいかないから、恋人と死別した日から何日経過したらもう悲しまなくてもOKとか決めてもらわないと困る。ちゃんとルールをつくっておいてもらわないと困る。なんていい加減な世の中なんだろうと思う。きっと里志が死んだ翌日にわたしがブラブラ遊び歩いてたら世間からはブーイングの嵐だろう。そのくせ「じゃあ、何日経過したら遊んでいいの? 一生、遊んだらいけないってわけじゃないんでしょう?」なんて聞いたらあきれた顔でそそくさと去ってゆくだろう。いかにも「俺にはその答えがわかっている。しかし、お前には教えてやらない。これは自分で考えるべき問題だからだ」とでも言いたそうな顔で去ってゆくだろう。わからないならわからないと答えればいいのに。わからないけどただなんとなく怒ってみただけだと言えばいいのに。なんといっても、そのせいでわたしがこんなに困っているのだから。だれか助けてよ。

 わたしだって里志が死んで悲しくないわけじゃない。現に、当初は比喩ではなく一日中泣き明かしたのだから。でも、それですっきりしてしまったのだ。一日中泣き明かしたら悲しくなくなってしまったのだ。里志と最期の別れをした瞬間、わたしの頭には大きな氷塊が埋め込まれたようだった。氷塊は脳を内側から冷やしてゆく。あまりの冷たさにわたしはなにも考えられず、頭は重く、体は気だるかった。一日中、ただただ悲しみに暮れることしかできなかった。しかし、ひとつの感情に支配される時間はそう長くもたないものだ。氷はやがて溶けてゆき、涙となって眼から排水され、悲しみはどこかに消え去った。わたしの心は癒えてしまった。まだ癒えてしまってはいけないのに、癒えてしまったのだ。まだ早い。早すぎるのだ。恋人を失って傷心したのならば、一日悲しんだくらいでその傷が癒えてしまってはいけない。最低でも一週間、いや、一か月は悲しみに暮れなければならないのだ。そうでなければいけない。そうでなければわたしが里志を愛していなかったようではないか。だけどわからない。どのくらい悲しめばいいのか? 一か月でも短いのかもしれない。恋人が死んだという理由で自殺するシナリオの戯曲があるぐらいだから。一体どのくらいの期間悲しめばいいのだろうか。どの程度悲しめばいいのだろうか。悲しみの度合いは死んだ相手との関わり方や愛情によるだろう。里志はわたしの恋人だった。口に出したことこそないが、いずれこの人と結婚するのだろうと思っていた。少なくともわたしはその気だったのだ。とすると、愛情の度合いはかなり大きいだろう。さらに、里志はわたしを愛していた。本当のところ、里志がわたしの事をどう思っていたのかは今となっては知る由もないが、要はわたしがどう思っていたのかが重要だ。里志はわたしを愛していたのだ。仮に里志が実際にはわたしのことを嫌っていたとしても、里志はわたしを好いている、里志はわたしが愛しくて愛しくてたまらないのだ、とわたしさえ思い込んでいれば、里志が死んだときに悲しみの度合いは大きくなるだろう。それなのに実際にはあまり悲しくも感じていない現状を考えると、なんだかんだで、実はわたしは里志を信じてはいなかったということになるのだろうか。心のどこかで、わたしは里志に嫌われているのではないか、という想いがあったから悲しくないのだろうか。

 歩きながら考えていると、いつの間にか自宅アパートまで着いてしまっていた。扉を開けて部屋の掛け時計をみると、まだ午後4時を少し回ったところだった。手に持っていたかばんを放り投げ、外套を着たままベッドに倒れこむ。今日はなんだかとても疲れてしまった。みえていた天井をまぶたでさえぎると、疲労感が閉じられたまぶたに鍵をかけてしまったようだった。もういいや、このまま眠ってしまおう。そう決めてしまってから、じっさいに眠りにつくまでにはほとんど間がなかった。

 それから、里志の夢をみた。

わたしは黒くて湿った大地に立った。周囲を見回しても一面に黒い地面がただ広がっているだけでなにもなかった。とりあえず歩き出してみるが、ぬかるんでいてどうにも歩きにくい。しばらく歩いた後で振り返ってみる。自分の足跡が延々と続いているのが見えると期待していたが、地面の黒が極端に濃いために足跡は確認できなかった。そのまま歩き進めていると、里志が立っているのが見えてきた。ぬかるみに足をとられないように少しだけペースをあげて近づく。

「ひさしぶりね」

声をかけると里志は口角をあげて嬉しそうな顔を見せる。

「そうでもないさ。まだ二週間しかたってない」

「ずっとここにいたの? どうりでお葬式のあとですがたが見えないと思った」

「まあね。 死んでしまったからにはお墓の中か、君の夢の中くらいしか行き先がないんだ」

「お墓の中にいけばいいのに」

「ひどいな。せっかくまた会えたっていうのに」

里志が悲しそうな顔を見せたのがおかしくて、わたしは笑った。声をだして笑ったのは久しぶりだった。

「いつまでここにいてくれるの?」

「君が望むのならいつまででもここにいるよ」

里志の微笑む顔がぼやけてゆく。目が覚めると午前2時を過ぎていた。

翌日、期待をもって眠りについた。里志はまだそこにいた。

「なんだ、まだいたの」

ほっとする気持ちを抑えてあえて冷淡に言おうとしたつもりだったが、声色の明るい調子は抑えられなかった。

「ずいぶんとひどい口ぶりだね。僕がここにいるってことは君がそう望んでるってことなんだけど……」

癪にさわったから、聞こえなかったフリをしてやった。

「ところで、わたし、あんたのせいで最近、生活しづらいんだけど」

「え? なに? 僕がいなくて寂しいって意味かい?」

「ちがう」

「ちがうのかよ」

「なんだかね、周りの目が気になるの。 “彼氏が死んだ女” としてみられてるっていうのがわかるの。だから、感情を押し殺して暮らさなきゃいけないわけ。嬉しいときも楽しいときも内心だけにとどめておいて、外見は悲しそうに、もしくは “この人、無理して笑ってるんだわ“ って思われるようにしてなきゃいけないの」

「そうか。……そういうことか」

里志はさびしそうに微笑んだ。それがあんまりさびしそうに見えたから、あわててフォローするための言葉を紡いだ。

「ちがうの。里志がいなくて悲しくないって意味じゃないの。ただ、周りの目とそれに合わせようとしてる自分がイヤなだけ。」

里志は微笑んだ表情をくずさなかったが、その表情から発せられる悟りともいえそうな気概はわたしの理解できる範疇を超えているような気がした。

「……ねえ、僕たちが初めて会ったときのこと覚えてる?」

「忘れちゃったかも」

「おいおい。いや~、あのときは君からの食事の誘いがしつこくて大変だった。……おわ! 危ないな! なんだ。やっぱり覚えてるんじゃないか」

わたしの放ったエルボーを里志は首をかがめてかわした。「チッ!」と舌打ちするわたしを見てニヤッと笑ったのが気に食わなかったので右ボディをおみまいする。膝から崩れおちる里志。あのころの記憶が思い出される。

わたしが自社ビルの受付嬢をしているとき、慣れないスーツを着て緊張した面持ちの青年がたずねて来た。青年はうわずった声で言った。「○○社の面接会場はどちらでしょうか?」あんまり真面目な調子だったのが可愛くて思わず口に手を当てて笑ってしまった。驚いて呆然とする青年に非礼を詫びたあとにわたしは「それは隣のビルです」と告げたのだった。それから、「内定が取れました」だの「昨日、上司に怒られてしまって……」だの「昨日の会社の飲み会で飲み過ぎて宿日酔いなんすよ~」だの青年は郵便配達員のごとく、ことあるごとに受付までやってきては現状報告をして隣のビルへそそくさと帰ってゆくのであった。気弱で真面目そうな青年の意外な行動力に面食らっていたわたしもそのうち青年に好意を持ち始め、今日はこないのかな、とか思うようになっていたころ、いつもよりも緊張した青年がやってきて震える声でこう言ったのだった。「今晩、お食事にさそってもよろしいでしょうか?」わたしは、あんまり真面目な調子だったのが可愛くて思わず笑ってしまった。笑いながら声を出して返事をするのが難しかったので右手の親指と人差し指で円をつくって返事をした。里志は満面の笑みをみせた。

「あのころは可愛かったのにね。あんた」

「そのかわり、今はダンディになっただろ?」

「あはは。どこがよ」

童顔の里志と “ダンディ” のイメージとの相違があまりにも大きくておかしかった。これは一種のシュールレアリスムといえるだろう。

「なんだか昨日より元気になったみたいじゃないか」

「別に」

なんだか認めるのがくやしかったのでそっぽを向くと、永遠に続いているかのような黒い地平線とイギリスのそれのような曇った空が見えた。

「まあ、いいことだよ……」

その発言のあと、里志はなにか続けて話したかもしれないが、その前にわたしは夢から覚めてしまっていた。ただ、夢から覚める前、里志の顔の右頬の部分に老いた人間のような黒い斑点ができているのが気になった。昨日まではなかったはずのものだった。

それから何度となく里志と夢での逢瀬を重ねた。里志の言うとおり、わたしは元気になっていったようだ。世間の目だの愛してなかったから悲しくないだの小難しいことは関係なく、ただ里志に会えなかった寂しさからいろいろ考えてしまっただけなのかもしれない。自分の弱みをみせるようで癪だったが、そのことを里志に話してみることにした。

「……ちがうんじゃないかな」

え、なんで?

「結局、きみは世間に迎合してしまっていると思うな。別にそれが悪いことだとは思わないけど」

どういうこと?

「きみが元気になったのは、世間にたいしての君の態度がきまったからだよ。まあ、きみのいうところの “世間” っていうのは突き詰めれば “自己” でしかないと思うがね」

わかんないよ。

「きみのなかに起きた変化は要するにこういうことだ。君は “恋人が死んだのに悲しむことができない” 状態から “毎晩、恋人の夢をみて恋人を悼む女” に変わったのさ。死んだ恋人を忘れられずに毎晩、夢見る女なんてけっこうなものじゃないか。これで世間に顔向けできるようになったわけだ」

やっぱりわからないよ。

「……」 いや、ごめん。やっぱり忘れてくれ。そんなことはどうでもいいことさ。

彼は微笑んだ。いや、微笑んだかどうかはよくわからなかったのだけど、たぶん、微笑んだのだろう。黒い斑点が顔中に広がって真っ黒になった彼の顔は表情が読みにくかった。


 それからの日々もわたしは幸せだった。幸せとは自己の願望が叶っている状態だ、とするならば。

彼とはいろいろな話をした。生前には話せなかったいろいろなことを。会うたびに彼の顔は腐食してゆき、肉片が顔から剥がれ落ちていった。人間は誰でも秘密をもっていて、すべてを人に話すことはできない。秘密というものはこの上なく甘美な存在で――しかし、脆弱なものだ。少しでも秘密を人に話してしまったら最後、その魅力は9割方が失われてしまって、ありふれた、つまらないものになってしまうのだ。でも、それは生きている人間の問題だった。彼はもう死んでいて(しかも、結構腐食がすすんでいる)、わたしはもう夢の中での生にしか興味がない。だから、秘密にしていたいろいろなことを話した。彼のいない間に彼の部屋で彼以外の男性と性行為に及んだことも彼に内緒で携帯電話の履歴をチェックしていたことも彼のつけている香水の匂いが嫌いだったこともセックスの相性がわるいと感じていたことも貧乏ゆすりのくせをみっともないと思っていたことも全部話してしまった。はじめは少し勇気のいることだったが話しているうちに楽になっていった。わたしたちにはもう駆け引きなんか必要ないのだ。相手によく思われようだとか好かれようだとか愛されたいだとかそんなことはもう関係がないのだ。わたしたちはこの世界でただふたりの人間であり、ただふたつの概念として互いに受け入れられるのが前提の存在なのだ。

でも、終わりのときはやってきた。

彼の顔はもうほとんど骸骨で、残っている部分は腐敗した肉片が左頬のところにこびりついているだけだった。わたしが彼の鼻腔のある下の部分に口づけをすると(歯茎がすべて剥がれ落ちていたため歯はなかった)彼は微笑んだ。皮膚はおろか、表情筋すらない無表情な彼が微笑んだことがわたしにはわかるのだ。どうしてそんなことがわかるのかをわたしは理解していた。

彼はもう話すことはできなかった。背骨の腐食がすすんで半ばで折れてしまってからは立つこともできなかった。彼は黒い塊となって地面に横たわっている。わたしはその前にしゃがんで、ただ彼を見つめている。彼には私の言葉を受け取る耳がなかったし、わたしには話すべき言葉がなかった。彼が腐ってゆくペースは通常のそれよりもはやいようで、ほとんど粉末状になってしまうまでにはそれほど時間はかからなかった。黒くて湿った地面に横たわる真っ黒な彼は地面とまったく見分けがつかなくて、ただこんもりと地面から盛り上がっている以外に特徴はない。このまま地面と同化してしまわないかと心配になったわたしは両手の掌で彼を残らず掬い上げた。掌の中の彼に向けてわたしは微笑む。しばらくそうしていると彼がだんだん少なくなっていることに気づいた。掌の隙間からこぼれ落ちているのだ。あわてて残りの彼を強く握りしめる。わたしの顔が悲しみで歪んでいるのがわかった。彼はどうしようもなく握られた掌からさらさらとこぼれていった。こぼれていった彼は地面に落ちるまえに風に吹かれて周囲に霧散してしまう。そうして、彼は消えていった。


「最近、顔色がよくなったね」

真弓に話しかけられてわれにかえる。

「え? そうかな」

「ぼーっとしてるのは相変わらずだけどね」

真弓はおかしそうににんまりと笑う。

「一時期は、もう死んだ人みたいに真っ青だったんだから。ほとんどゾンビだったよ」

「ゾンビってひどいな~」

「いつもなにを考えてるの? ぼーっとしちゃってさ」

「なんだかね……。 なにか大事なことを忘れてるような気がして……」

「ふ~ん」

真弓はいかにも興味なさげにカップの中のコーヒーを見つめている。自分で聞いたくせに、と苦笑する。

「ごめんごめん。……そういえばさ、あの絵、買ったんだね」

わたしの部屋にはマグリットの『呪い』の複写が飾られている。

「うん。なんとなく気に入ってね」


 いまでも、彼女はあの夢をみることがある。彼女は夢の中での彼との出来事をすっかり忘れているようで、夢の中で黒い湿った大地にたったとき、彼女は懐かしい気持ちになった自分を不思議に思う。そして、そよ風がやさしく彼女の頬をなぜるとき、切ないような嬉しいような甘いミルクのなかにほろ苦さがあるような感覚が彼女の胸の内に生まれ、彼女はそれを心地よく受け入れるのだった。



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最後まで読んでくれてありがとー