笑い

笑うのは好きだし、人の笑顔をみるのも嫌いではありません。「世界共通で『笑顔』は、もっとも不快感を与えない表情である」という話を聞いたこともあります。笑い、はそう悪いものではないように思えます。

しかし、やや美化されすぎている感があるのです。

「みんなの笑顔が僕の元気の源です!」とか「君の笑顔をずっとみていたいな」とか「あの子の笑顔を奪ったのは、他でもない、この俺だったのか……!!」とか、なんだか世間一般では、なにかすごく尊いものであるかのように、笑い、が扱われているようです。

あくまで、表情の一部。喜怒哀楽の『喜』と『楽』のときに現れやすいというだけのものである、というのが冷静な見方かな、と思われます(ちょっと冷静すぎるか)。言いたいのは、そんなに絶対的に肯定すべきものでもないだろう、ということです。

以前、中島らも著「何がおかしい」という本を読んだことがあります。かなり前のことなので内容はうろ覚えですが、印象的なのは、「ほとんどの『笑い』のメカニズムは差別的構造をしている」という部分でした。

例えば、最もベタな笑えるシーンとして「バナナで滑って転ぶ人」があります。ベタ過ぎて笑えない……、とかはあるかもしれませんが、明らかな笑いとはいかなくても、実際にこのシーンを見た人は誰もが「あ、面白いかも……」くらいは思うでしょう。しかし、当のバナナで転んでいる張本人にしてみるとどうでしょう。コントでない限り、わざと転んでいるわけではないですから、相当の緊急事態でしょう。急に身の自由がきかなくなって目の前が急転するのですから、死の恐怖すら感じるかもしれません。目は驚愕で見開かれ、顔面は恐怖で蒼ざめているでしょう。その点、第三者からみると、ただ、マヌケにしか見えません。そして、彼らはにやにやと口元をゆるめるのです。

第三者は、「マヌケな姿をみたから」笑っているのでしょう。しかし、言い換えるならば「自分とバナナで転ぶ人とを比較して、自分の優位を確信したから」笑っている、といえるのではないでしょうか?

つまりは、「笑い」とは「緊張の緩和」なのでしょう。自覚的な人は少数でしょうが、弱肉強食、食うか食われるかの世界で、自分の優位性を確認することは生きるために必要なこと。自分が優位であれば、身の危険がないからです。そこで、自分の優位性が認められない、わからないという場では、人は緊張します。肩に力がはいっています。いつ、だれが、襲い掛かってきても俊敏に対応するためです。そこへ、自分の優位を確信できるような出来事が起こります(例えば、バナナで転ぶ)。ここで、緊張する必要がなくなるわけです。なにせ、彼はバナナで転んでいるようなマヌケなので、もし襲い掛かってきても楽勝で撃退できると感じるのです。そして、笑いが生じるということでしょう。

まあ、別に「笑い」が悪いというつもりは毛頭ありません。差別的な構造をもっているにせよ、だからダメだと決めつけられるような性質のものでもありません。

ただ、これだけは言っておきたい。いつも笑顔の彼女が自慢のあなた、彼女の笑顔の理由は必ずしも好ましい理由からではないようですよ……。



最後まで読んでくれてありがとー