It's a small world ! 第二話
ヤナセ先生は古びた2階建ての木造アパートに住んでいた。外装から考えると意外に中はきれいで、先生の部屋は八畳間のワンルームで整然と片づけられていた。中年男性の一人暮らしというものはもっと乱雑で不衛生なものかと思っていたのだけど、やはり聖職者だけあって私生活にも気遣われているということだろうか、と、思ってから、気がついたのだけど、先生の部屋にはほとんど家具や電化製品が見当たらない。本当にここで生活しているのだろうか、と疑うほどだった。これでは、部屋を乱雑にするほうが難しいだろう。あるものと言えば、部屋の奥隅にある冷蔵庫と箪笥、それに僕が手を置いているちゃぶ台くらいだ。僕の目線の先には先生が超然とした態度で鎮座している。さすがは、僕が一目置く先生だけのことはある。僕は生唾と一緒に先生がだしてくれた冷えた麦茶を飲みこんだ。先生は急に訪ねてきた特に親しくもない教え子を何も言わずに部屋に通して、麦茶までごちそうしてくれているのである。懐が深いというか、人情味があるというか、慈悲深いというか、非常識というか、無神経というか、思考停止というか、意見は人それぞれだろうが、ぼくは先生の態度を好意的に受け止めている。なにしろ僕はこういう展開を望んでいたのだ。なにも言わずに部屋に通してくれるなんて、まるで僕が先生の部屋を訪れることを予測していたかのようじゃないか。僕は先生の醸し出すミステリアスな感じを気に入っていたのだ。
先生が口を開く気配を察知したので、僕は一言一句聞き漏らすまいと先生の口元を注視する。
「きみは、いつも私の授業を熱心に聞いてくれる生徒だね。私の部屋まできて、どうしたのかな?」
ぼくは、少し頭の中を整理してから、ゆっくりと話し出す。大人からの信用を得るためには、理路整然と話す必要があるのだ。イタズラにきたと思われて真面目に話を聞いてもらえなければ、わざわざ放課後にここまでやってきた意味がない。
「ぼくは、いつも先生が授業中にしてくださる話を楽しみにしているのですが、今日、お話しされた内容がよくわからなかったので、もっと詳しくお話しを聞かせていただきたいと思ってきたんです。……お邪魔だったでしょうか?」
先生はほんの少し口元を緩ませた。
「ああ、そういうことか。……いいよ、いいよ。特に用事もないし、話の続きをしてあげよう」
先生は麦茶をそっと口に含ませてからゆっくりと話し始めた。
「『今日の朝、ぼくは目覚まし時計より十五分も早起きしてしまった。いつもはこんなことはないんだ。ぼくはあたたかいふとんの中でじっとしているのが大好きで、目覚まし時計のあの残酷な怒鳴り声で起こされるまでは決してふとんの中から出ることはありえないし、ましてや、なぜかわからないけど、ぼくの心臓がドキドキして仕方がなかった。まるでぼくのぼくはなんだか。』…………『ほら! いつもと違うことが起こった! 体は相変わらず机でじっとしていたが心は教室の中を踊りまわっていた。』…………『R134号は最新の科学技術の結晶と言えるだろう。ピカピカに輝く金属で覆われたボディはなにものをも通さず、最新最高のコンピュータが搭載された頭脳はどんな複雑な計算も瞬時にやってのけた。その目はどんなにざわついた雑踏の中でさえも洗練された淑女たちを見逃さず、その耳は3軒となりの淑女のつつましやかなすかし屁の音でさえも聞き逃さない。その足は度重なる狼藉に業を煮やした淑女に追いかけられても簡単に逃げ切ることが可能なほど俊敏な動きをみせ、その弁舌で弁護士を引き連れた淑女たちの訴えを煙に巻くのだった。そして、R134号の最大の長所は淑女相手でなくとも十分に能力を発揮できる点だった。彼の生みの親はミューズ博士だ。ミューズ博士はロボット工学の偉大な学者であり、王国中の人々の尊敬を集めていた。しかし、R134号は生みの親であり偉大な学者である彼に好意をいだくことはなかったし、尊敬もしていなかった。その原因はミューズ博士が可憐な淑女たちにさえ目もくれないほどの堅物だったことではない。R134号はロボットであり、ロボットはあらかじめ設定されたことしかできない。つまりはR134号は誰かに好意をいだいたり尊敬したりするようにつくられてはいなかったのだ。ミューズ博士はそのことを踏まえてもR134号は世界最高のロボットだと考えていた。これは決して盲目的な自画自賛による客観的思考の欠如ととらえるべきではない。感情をもつロボットをつくることは技術的に可能だったが、博士はロボットに感情は不要であるとの考えをもっているためにあえて感情をもたせなかったのだ。博士いわく、ロボットに感情をもたせるとろくなことにならない。とっさの判断が必要なときに思考回路を遅らせる障害になりかねないし、悪人にたぶらかされて不良ロボットとなるかもしれない。信じがたいことに、ロボットが朝から晩まで淑女の尻を追い掛け回すような醜態をさらす可能性さえあるのだ。しかし、――あくまでここだけの話だが――R134号に感情をもたせなかった理由はそれらとは別の理由からだった。その理由はミューズ博士にたずねてはいけない。もしもあなたがミューズ博士にその理由をたずねたりしようものならうまい言い回しで話をあちこちに飛び火させられた挙句にはぐらかされてしまうだろう。しかも、話の間に君の精神にトラウマを負わすような恥辱の数々を博士が話題にとりいれることは必至だ。仮に、なんとか博士との口論に勝利したとしても(もっとも、博士を言い負かすことは誰にもできないだろう。彼は最高の知能をもつ学者であり、能弁な空想家でもあるのだ)真実を聞き出すことはかなわないだろう。博士にとっては、大して親密でもないあなたにそんなことを話さなければならない義理はないのだし、いざとなれば博士は手段を選ばないだろう。博士の懐には、秘密の発明品である、どんな物質も瞬時にばらばらに分解できるピストルが常時備えられていて、気に食わないやつは2秒以内にこの世から消すことできるという噂があった。……あくまで噂であると念を押しておく。ミューズ博士は明朗な性格で人格者であることが知られていたが、彼に関するいくつもの黒い噂があったのもまた事実だ。もっともアフリカゾウのように巨大な彼の人望の前ではパンくずに生えた青かびのようなものだったが。どこにでもおろかな人間はいるもので、以前、それらの噂がを事実であるかを博士に直接たずねたものがあった。この人物はまちがいなく世界中にいる数多の愚かな人間のなかの一人ではあったものの、博士と口を利いたというただ一点において、私は彼を賞賛したいという願望を禁じ得ない。その理由は博士とまっすぐに対峙すればわかるだろう。博士のするどくもなくおだやかでもないのっぺりとした深い海のような瞳に見つめられると自分の全てを見透かされるのがわかるだろう。事実、彼のことは彼以上に博士のほうが知っているのだ。博士は人間という動物の習性や行動様式をよくよく理解していた。結局、彼と最後におしゃべりする栄誉は博士に与えられた。そして、彼は博士と話したその日のうちに姿を消したきり、現在まで姿を現すことはなかったのだ。…………
最後まで読んでくれてありがとー