あきの日
「あ~あ、なんか面白いことねえかな」
明良が半ば独り言のように声を発する。
彼からすれば、今日という日は彼の人生の中のなんてことのない一日で、特に記憶に残ることもなく、ただ「中学生だったころの一日」としてその他の日々と十把一絡げにされてしまうものだろう。
でも、僕にとっては少し、事情が違う。
「じゃあな。また明日」
明良と別れて僕は僕の家へと帰る。ここまでは昨日と同じ。いや、昨日までの日々と同じ、といったほうが正確だろうか。玄関から、自分の部屋へとまっすぐに向かう。かばんを机の上に投げ出し、自らの体はベッドを上に投げ出す。枕元の目覚まし時計を確認すると、約束の時間まではまだ少し時間がある。両手を瞼の上に乗せて目を閉じる。
果穂はどういうつもりでいるのだろう。やはり、放課後に、同級生の女子に呼び出されたのだから、果穂は僕に好意をもっていると考えるのが自然だろうか。昼間、果穂に「夕方5時に教室にきて」と耳打ちされたときは、正直、心臓が高鳴った。平静を装ってうなずいてみせたが、果穂に動揺しているのを悟られなかっただろうか。なんだか下腹部がムズムズして落ち着かない。なにか新しいことが始まるのだという予感で体中がいっぱいになったようだった。
「そろそろ時間だ」ひとりきりの部屋でつぶやいて、僕は部屋をでる。再びこの部屋にはいるときには、いまとは少し違う自分になっているはずだ。
「あ、もうきたの」
教室にはいるとすでに果穂がいた。夕日が赤く染めた教室は、いつもの授業を受けているその場所とはまるで別物のように感じた。
僕は、少し間をあけて、うなずいた。
何か気の利いたことを返したかったが、なにも思いつかなかった。いや、なにも思いつかなくてよかったかもしれない。もしなにかしゃべっていたとしたら、たぶん、その声はふるえていただろうから。
「あのさ、せっかく来てもらって悪いんだけど・・・」
果穂がうつむき加減に僕のほうに近づいてくる。近づいてくる。近づいてくる。
え? 近くない? と思うほど接近してから、果穂が顔をあげた。
「たいした用事じゃないんだよね」
そういってから、果穂は僕にキスをした。
「じゃあね。わざわざきてくれてありがとね」
果穂はほんとうに申し訳なさそうに言うと、教室から出て行った。
僕は、結局、一言も発しないまま、教室に取り残された。
なんだったんだ、とか。なにかの悪戯じゃないか、とか。いろいろ、この状況にふさわしい感想を考えてみたが、それらの感想たちを一定の形にとどめることは難しく、もやもやとした曖昧な輪郭のまま胸の中でくすぶりつづける。
「唇で触れる唇ほどやわらかなものはない」
借り物の言葉でお茶を濁してみたが、なんだか締まりがない。
僕の中で何かが終わったが、そのあとで何かが始まる気配を感じることはなかった。
最後まで読んでくれてありがとー