愛をこめて、サラダボウルを

結婚式の前夜祭。各地の領主たちが集い、女たちは着飾り、男たちは酒に酔う。天井できらめくシャンデリアが作り出す光の濃淡が、一方では陽気な一座の顔に明るみをもたらし、一方では背後に影をつくる。食堂の中で私は配膳をしながら愛しいあなたを探す。必ずいるはずだ。この一座はあなたのためのものなのだから。 

 見つけた。あなたの姿は10年以上もお見かけすることがありませんでしたが、それでもすぐにわかりました。あの頃はまだ愛らしいおさげ髪の少女だったあなた。いまでは腰まで伸びた長い髪に胸の開いたドレスをきて堂々とふるまわれている。しかし、なにより口元に目が行ってしまう。美しく形の整った唇。その小さなあなたの唇は、実際にはわたしの胸の内をほとんど埋めてしまうほど大きいのです。ああ、ぞくぞくする。たまらないなぁ。美しくなられたあなたは料理の盛られた皿が置かれている円卓の前で旦那様となにかお話しされているようだ。明日には隣国の王子に娶られるあなたと過ごす最後の夜にふさわしい舞台で、威厳のある表情で、旦那様はあなたに語りかけている。あなたは真摯にそれを受け止める。目には涙まで浮かべて。嫁入り前、父と娘の最後の語らい。なんと美しい光景だろうか。そんな中だというのに、気がつくと私はあなたの唇を見つめている。 

 宴も半ばに差し掛かり、ひとしきり、来賓との挨拶を終えたあなたは円卓の上に目をやる。サラダボウル。それに盛られたチキンサラダ。幼いころ、あなたはチキンサラダがお好きでしたね。それは今でも変わらず? 愛しいあなたはサラダボウルに手を伸ばす。ああ、よかった。あなたはあの頃のままのようですね。それはね、私のつくったチキンサラダなのです。あなたのためにつくりました。心からの愛をこめて。 

 あなたと初めて会ったのは私が7歳のときでした。同じ年頃の子供同士でありながら、あなたは私に対して冷たかった。男と女のちがい? お嬢様と使用人の立場だから? もちろんそれもあったのでしょうね。でも、一番の原因は父のことではなかったでしょうか? 私の父はこの屋敷に仕える料理人でした。料理の腕は抜群で、人望が厚く、誰にでも優しい自慢の父でした。でも、あなたは父の料理が気に入らなかった。いや、料理が気に入らなかったわけではないのでしょう。現に、はじめは喜んで食べていたようですからね。父のつくったチキンサラダは特にお気に入りのようでした。しかし、次第に父の料理を褒める旦那様と奥様の様子にいらだちを覚えたのでしょう。自分だけに構ってほしい。他の誰かが褒められるのは気に入らない。幼いあなたの胸の内にはそんな想いが渦巻いていたことでしょう。つまり、あなたは父に嫉妬したのです。あなたはほとんど食事をとらなくなってしまいました。父へのあてつけのつもりだったのでしょう。そういった行動はだんだんエスカレートしていきました。ある日の夕食の席で、こんなまずい料理は食べられない、とあなたは言いましたね。食堂手前の廊下で料理をのせたお皿をステンレスのカートで運ぶ父にも聞こえるほど大きな声で。父の後ろで水の入ったボトルを運んでいた私にも聞こえるほど大きな声で。それでも、父はいつも通りにテーブルの上にお皿を運んでいました。一人娘のあなたを溺愛する旦那様と奥様は互いに困ったような表情を見合わせるだけで、不作法な娘をたしなめることはしませんでした。父は、終始、何事もなかったかのようにふるまっていましたが、お皿を下げて食堂を去るカートを押す手はぶるぶると震えていました。怒っていたのでしょうか。悲しかったのでしょうか。職を失うことに恐怖していたのでしょうか。その日、私は父に話しかけることができませんでした。使用人の立場で何も言い返せない父を不憫に思いました。 

 そして、父は、幼いあなたの拙いストライキにあっさりと敗北しました。何日も父がつくった料理に手をつけなかったあなたに参ってしまった旦那様は、こうなっては料理人を変えるしかない、と父をあっさりと解雇してしまいました。プライドが高く、料理しか生きる道を知らない父にとって、それは大きなショックだったのでしょう。それっきり、二度と厨房にたつことはありませんでした。昨年、不向きな肉体労働を重ねたことが原因で体を壊して死んでしまうまで、ずっと。 

 ああ、あのとき。私と父が屋敷を出ていくときに、門前まで見送りにいらしてくださったあなた。かわいらしい唇。美しい花弁のつまったつぼみのような、やわらかなふくらみをもったその唇。その唇が淡く開かれてあなたがちらりと出したその舌。ピンク色の愛らしいその舌。 ……。 あなたがこっそりとだしたその舌は旦那様にも奥様にも父にも気づかれませんでした。ただ、私だけがじっとそれを見つめていたのです。私に気づいたあなたは唇の端をあげていたずらに微笑みました。私はまるで石になったかのように固まってしまい、父に引きずられるようにして屋敷を去ったのです。あなたの唇。あなたの舌。その小さくて愛らしいピンク色。私はそれが欲しくて欲しくてたまりませんでした。それは大人となった今でもそうなのですよ。あなたのそれが、欲しくて欲しくて。 

 ところで、あなたが手に取ったそのサラダボウルの中のチキンサラダには特別な毒薬がもってあります。それを食べたあなたは数時間後には痺れて動けなくなるでしょう。大丈夫、死んでしまったりはしません。私はあなたを愛しているのですから、そのようなことをするはずがないのです。痺れて動けなくなったあなたは幻覚をみるでしょう。心の奥底で恐れていることを無理やりに引っ張り出して目の前につきだしてくるような、そんな効果がその毒薬に含まれています。あなたの場合ではどのような幻覚を見るのでしょうね? たとえば、自分のせいでクビになったコックの息子が復讐にやってきて、チキンサラダに毒をもる、とかね。いや、そんな殊勝なことを考えるあなたではありませんね。わたしたち親子のことなんてとっくに忘れているのでしょう。想像するに、温室育ちのあなたのことだから、大きな蜘蛛や百足に襲われる幻覚でもみることでしょうね。だけどね、本当にこわいものはそんなものではないのですよ。

幻覚が薄れ、意識がはっきりしてきたころ、あなたの寝室に一人の男が現れるでしょう。だけども、その男はあなたのフィアンセである隣国の王子ではなく、ひそやかにあなたに恋い焦がれる黒マントの騎士でもなく、あなたの苦痛を取り除くお医者様でもありません。ただの若いコックです。それも今宵の宴に紛れ込んだ招かれざる客。あなたは知らないでしょうが、世の中で一番こわいものはコックです。それも胸に復讐を誓った若いコック。そのコックはフルーツのはいったバスケットとくだものナイフを持ってあなたの寝室を訪れるでしょう。コックはあなたに声をかけます。  「さあ、フルーツをむいて差し上げましょう。お好きなものをおっしゃってください。」  しかし、あなたはしゃべることができません。それもそのはずです。あなたはまだ毒薬に痺れて動けないのですからね。どうにか自分の身に起こった異変を伝えようとあなたは体の痺れによって決して出せない声をなんとかひねり出そうと苦心するかもしれませんが、その必要はありません。そのコックはすべて承知しています。あなたが体を動かせないことを確認したコックは仰向けに横たわるあなたの顎をそっと、もちあげます。淡く開かれた形の良い真紅の唇をコックの目の前にさらされたあなたは、ねっとりと湿ったその中に親指と人差し指を挿入されます。まもなくコックの指でつままれたピンク色のかわいらしい舌が唇の間から姿をあらわすことでしょう。そして、コックは、充分な長さまで舌を露出させてから、バスケットにしのばせた鋭利なハサミで……。 

 今まで幸福な人生を歩んできたあなたにとって、それは大きな苦痛となることでしょう。これまでの人生が幸福であればあるほど、痛みや悲しみを知らねば知らぬほど、現状と絶望との落差は大きくなり、落ちたときのショックも大きくなるものなのです。もしかするとあなたが自分自身の意志で人生にピリオドをうつことになるかもしれません。それが私の望みです。 

 だから、私はあなたを愛してきた。だから、私は長年にわたって、あなたの幸福を祈ってきた。安らかに健やかにその笑顔に少しの陰りもないことを祈ってきた。天よ、いついかなるときでも彼女に享楽と幸運を! 天よ、いついかなるときでも彼女に悲しみの訪れぬように! 苦しみと痛みに遭うことのなきように! これが愛ではなくてなんだと言うのでしょうか? 

愛しいあなたはサラダボウルに手を伸ばす。さあ、召し上がれ……。

最後まで読んでくれてありがとー