歴史と経済87〜無力〜

分からないままその場にいると、無力感が漂う。
理解できない英語を聴いていると、もっと有意義な時間にしたいと思う。
経済や歴史の話についていけない時、知らないことの多さに呆然とする。


何もできないということは、決定的な力不足である。
そして、これが理解できる状態になったならば、どれだけ世界が変わるだろうかと考えてみる。
少なくとも、「分からない」という状況を脳は認識するだろう。
そして、同時に対応しようと活動し始める。


幼児が大人の指差しやジェスチャー、表情や単語ひとつから学ぶように、人間はその環境に順応しようと本能的に努めるのではないだろうか。
少なくとも興味があり、そうせざるを得ない状況であれば、脳は対応を目指すのではないか。
現に私たちは文脈、状況、空間的関係など全てが含まれる情報を浴び続けて、この世界を認識し、言語を獲得している。


その世界に入って無力感を感じながらも、危ない経験をしながら自分なりにこの世界を秩序化してきたのだろう。


どうしても分かりたいという思いが先行して、意識の中に落とし込むことが正解だと考えてしまう。
だから、Googleで検索する。
もちろん、それはそれで必要なことではある。
分からないことを放置するだけでは、収穫は少ないであろう。


しかし、同時に何もできない状態を感じながら続けることも大切ではないか。
分からない英語でも一度、流しっぱなしにしてみる。
字幕なしの海外映画を見続ける。
あるいは、外国語字幕をつけながら見てみる。
滅多に見ない株式相場の動画を見てみる。
基礎法学やグローバル・ヒストリーのシンポジウムに参加してみる。


このようなことをすると、脳が一瞬は拒否反応を起こしてしまうかもしれない。
専門用語のオンパレードで話に全くついていけないということが起こる。
自分の能力の不足を痛感し、今流れている時間をもどかしく思う。
しかし、それが興味のある分野なのであれば、それでもその作業を継続してみたらどうだろうか。
最低でも、自分が目指すべき一つの到達点として、その状況が認識されれば良い。


語学習得のため、映画を字幕なしで見るという学習法はよく言われることだ。
教科書のような、綺麗な言葉だけが出てくるわけではない。
音が飛んだり、消えたり、ブロークンな表現が次々に入ってくる。
それも含めて、全て了解して受け入れてみる。

5分で見るのをやめてしまえば、得るところは少ないだろう。
1時間見れば、多少なりとも日本語字幕とは、違う世界観が映画を通して展開されていくことに気づく。
2時間見れば、分からないなりに継続する価値を感じるかもしれない。


分かっている実感は薄いけれども、受け入れている実感はある。
そんな状態である。
「分からない自分」は認識できている。
それが、違和感や無力感のように感じたとしても、無意識の範囲では脳は既に順応しようと活動を開始しているだろう。


知らない世界に飛び込むと、すぐに飛び出したくなる。
しかし、それを受け入れることで器そのものが大きくなり、やがて自分自身がその世界の構成員となっていくことができる。

しばらくその場に居座り、少し待ってみると、景色が変わるかもしれない。
そして、それが自分の世界観そのものの変革に繋がっていく。

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