日本とのつながり82〜東方問題〜

1820年〜1840年の世界を見ていきたい。
ヨーロッパ諸国の産業革命、市民革命による飛躍は明らかだった。
一方で、オスマン帝国(現トルコ)の解体が始まりつつある。

トルコは現在でもヨーロッパとアジアの境界に位置する。
オスマン帝国は日本で言えば鎌倉時代にあたる1299年に始まり、アジア、ヨーロッパ(バルカン半島)、アフリカにまたがる大帝国となった。
現在のギリシャもエジプトもこの帝国に支配されていたのだ。

ところが、盛者必衰で帝国に陰りが見え始めるのがちょうどこの頃である。
1821年にオスマン帝国内でギリシア独立戦争が始まると、ロシア・イギリス・フランスは領土的野心もあり、ギリシアの独立を支援した。
さらに、1831年〜33年、1839年〜1840年と2度にわたって帝国支配下のエジプトがオスマン帝国と戦争を起こした。
これはオスマン帝国からエジプト州の管轄権を与えられていた総督ムハンマド=アリーが独立を企て、シリアの行政権も要求して戦争になったものだ。

結局、2度の戦争後、ムハンマド=アリーはエジプト・スーダンの総督世襲権を認められたものの、シリアは返還することとなった。
しかし、オスマン帝国の版図は確実に縮小していた。
地政学的にもヨーロッパの近代化の影響を最初に受ける帝国となる。

このような激しい外圧から、オスマン帝国では非西欧諸国の中で最初となる近代化政策であるタンジマートが1839年から始まる。
しかし、国内産業の育成や立憲制に目を向けたものではなかったため、列強諸国に対抗できる改革とはならなかった。
否応なしに、近代化の波が世界の帝国を襲う時代にシフトしつつある。
参考文献:世界史用語集(山川出版社)
参考文献:日本史用語集(山川出版社)
参考サイト:世界史の窓

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