謙遜されて悲しくなった話

春の北海道から

 北海道はゴールデンウィークに本格的な春を迎える。桜道を散歩していた時に、ふと昔通っていた習い事の先生を思い出した。散歩道の途中にあるような場所を目指して習い事の場を開き、実際のんびりとしてすごくあたたかな先生だった。
 せっかくだからと桜の便箋と封筒を取り出して、つらつらと近況を書き連ねて北海道の桜の写真や最近のわたしの作品を同封してポストに入れた。気が向いたら返事をくださいと一文を添えたが、返事は期待していなかった。手紙と同封した写真を見てもらって、北海道でも元気にしているかなと一瞬わたしに思いを馳せてもらえれば満足だったのだ。
 その数日後。わたしの母からLINEが届いた。わたしの習い事の先生のお母様から手紙の返事がLINEで届いたということなので、わたしに転送してくれたのだ。わたしの習い事の先生のお母様はわたしの母と古くからの友人で(関係がややこしくて申し訳ない)、わたしとも面識がある。この習い事の先生のご家族は家族ぐるみでわたしや母と仲良くしてくださり、習い事の先生だけでなくご家族みんなが読めるような内容で手紙を書いたので先生本人ではなくてお母様から返事が来てもおかしくはないなと思っていた。

返事の中の引っかかる一文

 お返事の内容自体はわたしの近況や作品に関する感想だったが、ん?と思った一文があった。
「お手紙を送ってくれるなんて、よっぽど暇だったのでしょうか?」
 可愛い絵文字を語尾につけていたことからも、もちろん冗談だというのは分かる。おうち時間が増えて家でだらだらしているという文も手紙に書いたので、わたしが実際に暇だというのも伝わっていると思う。しかし心の中にモヤっとしたものができて、なんとなく悲しくなってしまった。
 冗談だというのも分かるし、暇なのも事実。暇であることは悪いことだとは思っていないので、自分が暇な人間だと言われるのも気にならない。ではなにが心を曇らせたのかを考えてみることにした。

これは謙遜なのかもしれないぞ?

「お手紙を送ってくれるなんて、よっぽど暇だったのでしょうか?」
 暇な時間を活用して自分なりに考えてみた結果、これは謙遜の一種なのではないかと気づいた。一見謙遜には見えないが、自分がこの一文を書くとしたら以下のような思考で書くかもしれない。
 手紙の中で暇だと言っていた→たくさん時間がある中で自分のことを思い出してわざわざ手紙を出してくれるのは嬉しいし照れくさい→わざわざ自分のことを思い出してくれるほど時間がある→例の一文
 おそらくこの時代にわざわざ手紙をくれたという気持ちと気恥ずかしさがこの文にあらわれているのだと思う。
 ここで謙遜の意味を再確認したい。

謙遜
 
へりくだること。控えめな態度で振る舞うこと。自分の能力や価値を低く評価することで相手に敬意を示すこと。

 時間のある中わざわざ自分のことを思い出してくれたということは見方を変えれば、普通なら自分のことなど思い出さないはずという自分の価値の過小評価につながる。つまり半ば無理やりかもしれないが、例の一文は謙遜を表す文だと言っても差し支えないだろう。
 ならばなぜ謙遜という相手に敬意を示すはずの文が悲しみをもたらしたのだろうか。

わたしはあなたが素敵だと思っているのに

 わたしにとって習い事の先生とそのご家族は優しくて尊敬できる人たちだ。幅広い分野に造詣が深く、芸術を愛し家族を愛し、雑誌に出てくるような生活スタイルが素敵だった。つまりわたしはあのご家族にとても高い価値を感じているわけだ。その一方で、謙遜の一文からは「普通なら思い出さないような(それだけ価値が低い)わたしをわざわざ思い出してくれて手紙を出してくれてありがとう」というメッセージが伝わってくる。
 わたしがとても価値があると思っている相手から、自分は自分の価値は低いと思っているよというレスポンスが飛んできたということになる。

 想像してみてほしい。自分が大好きなアイドルやキャラクターに出会えたとして、「あなたに会えて本当に嬉しい!会ってくれてありがとう」と伝えたときに「わたしにはそんな風に言ってもらえる価値はないから......」と返事をされたら。あなたにはとても素晴らしい価値があると思っているのに、その価値を本人自身に否定されてしまったら。
 なぜそんなことを言うのと、とても悲しくならないだろうか。
 もちろんこのご家族はわたしの推しとまではいかないので、自分の推しにもしこのようなことを言われたらと想像したときの悲しみのレベルと比べると大分小さいだろう。
 しかしその小さな悲しみこそが、今回の一文を読んでできた心の違和感なのだと思う。

謙遜はときに人を傷つける

 日本人にとって謙遜は美徳だと言われてきた。相手よりへりくだることが礼儀だとされているため、相手の誉め言葉に驕らずそんなことないですよと言うことが美しいコミュニケーションだとされてきた。
 日本人の会話術的には確かに美しいかもしれない。しかし美しい会話が必ずしも人を幸せにするとは限らない。自分が良いと思ったものにはそれだけの価値があってほしいし、その価値を否定することは否定しているのがそれ自身だとしても悲しくなる。
 自分が小さいころ、自分が他人に褒められたのに、親が代わりに「そんなことないですよ~」と謙遜の返事をした経験はないだろうか。された子供の側はなんとも悲しい気持ちになったことだろう。礼儀としては正しいのだろうが、それは自分の子供の価値を親自身が否定することになる。人を傷つける礼儀のいったいどこが美しいのか、わたしには分からない。

 幸いなことに(?)、最近では謙遜を美徳ではないとして受け取る風潮も広がってきている。謙遜のし過ぎは嫌味と受け取られる場合もあるようだ。
 謙遜は相手が褒めてくれたなにかしらの価値を否定することだ。相手が褒めてくれたとき、何かをしてくれたとき、相手が認めてくれたその価値を否定するのではなく、ぜひ相手の気持ちに対して「ありがとう!」と言ってほしいと思う。


再度北海道から

 ゴールデンウィークもすぎ、北海道はこれからどんどん本州を追うようにして夏めいてくるだろう。北海道はとにかくいつでも美しい。
 また夏の散歩道であのご家族を思い出したら向日葵の便箋と青い空の封筒を取り出して手紙を書こう。次は「素敵なお手紙をありがとう」という返事を期待して。

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?