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多種大量に読んで、様々な職種の人と話をするから、分かる差分

1 違う世界に出て、違う人々と一緒に仕事をするということ

2010年から2014年まで、国税不服審判所で国税審判官として勤務させてもらいました。そこでの4年間の経験は、いまだに、本当に得難いものであったと感謝しています。

弁護士業だけをしていたそれまでの10年間とは異なり、法律文書として書かれた、いろいろなバックグランドの人が書いた書面を読み、また、自身が書いた書面、文書についても、法律家以外の人が読んだり、あるいは、審判所に出向している裁判官に読まれて具体的な指摘を受けたりと、それまで当たることのなかった様々な風に当たることができました。

そのままさらに弁護業を4年続けていただけでは絶対に経験することがなかった経験となりました。

2 違いを理解し、なぜ違うのかを理解するということ

違う風に当たってみて、わかったことは、「弁護士業をしてきた者」は、当たり前ですが、弁護士業をしていない者とは違う、ということです。

それまで、仕事では様々な依頼者からの依頼を受けて関わっていたつもりでしたが、基本的には、弁護士と依頼者という関係であり、それ以外は、同業者の同期、先輩が交流の中心でした。もちろん、異業種の友達ともご飯を食べたり、飲んだりしていましたが、そこでは当然、仕事の話はしません。

そういう状況の中、同じ証拠を見て、同じ主張書面を見て、同じ法律を見る人々と一緒に同じ仕事をする、そうした経験で、初めて「弁護士の特殊性」がわかりました。

国税職員だけではなく、税理士、公認会計士もいます。それぞれが微妙に物の見方、考え方が違うのです。

また、文章作成という点についても、これは消費者委員会関係で、消費者センターの相談員さんや、司法書士さんとグループになった時に気付いてはいましたが、実は、弁護士が作成する文書は弁護士しか書けない類のものだということがはっきりしました。というよりも、普通の人はそれほど文書を書けないという事実、書く必要がないという事実です。

不服審査請求として提出される書面でも、代理人として弁護士が作成しているのか、税理士が作成しているのかは、5行も読めばすぐにわかりました。

残念ながら、任期付で勤務し出した人の中には、こうした違いに対して、自分の方が正しいというスタイルから離れられず、アレルギー反応的な反応を示し続ける方もいたようです。

自身も、当初戸惑うことが多かったのですが、途中で、これは外国留学なんだ、あるいは、自身は外国人社員なんだと思うようになり、そうすると、まずはこの地のことを、自身の風習、言語とは違って当たり前なので、何がどう違うのか、そしてその違いは何に由来するのかを学ぼうという発想に大きく転換しました。

自分で自分を褒めるとすると、こうした点、学びとる力は低くはなかったかと思います。

その成果として、役に立てればと思って形にしたのが「税理士・弁護士のための税務調査の後の不服申立手続ガイド」です。

推薦文をお願いした品川先生からは、次のような言葉をいただきました。

わずか4年の国税不服審判所の経験の中で、これだけのものをまとめ上げたことについて驚嘆している。

3 傲慢な言い方になるけど、上から下は見えるけど、下から上は見えない

給料以上の貢献をしつつ、学び取るという姿勢を貫きつつ、自身は、違いを違いとして認識して、その評価についてはしませんでした。

仕事が違うし、バックグランドが違う。当然、物事に対する対応、反応も異なって当然だと受け止めいてました。

しかし、名古屋支部でも50人、大阪支部では100人ほど、またそれも事業年度ごとで多くの人間が出たり入ったりします。

当然、いろいろな方がいて、みんながみんな100%、なんていい人なんだろう!という人ばかりではありません。それはお互いさま。

そうした中で、当時、思ったのは、傲慢ですが、

「上から下はよく見えるけど、下から上はよく見えない。」

ということでした。

これは、当時のある状況を同期の弁護士に愚痴った際に言われた言葉です。聞いたとき、すべてが腑に落ちました。

なぜか敵意をむき出してにしてきたり、ライバル心?を露わにする人、今でいうマウンティングを仕掛けてくる人。そういう言動をとる人について、分類、分析をすると、「ああ、下から上は見えないんだな。」ということでした。

あるいは、「無知の知」がない。

だから、一緒に働きながら、成果物の質を高めていこうというスタンスではなく、単に、自身が思っている自身の優秀さをアピールしたいがためにーだいたいそういう人は実は客観的評価は違ったりしたのですがー傲慢な言動を人に対してとることができるのかとわかりました。

それは、日本の税法の歴史を体現するような税法学者の金子宏先生がコメンテーターをしてくださった東京での私的勉強会に参加する機会があった時に、確信に変わりました。

4 超一流の人ほど、超謙虚

超一流の人ほど、超謙虚、という事実です。

20歳以上は年下の、税法の何が分かっているのかというひよっこたちの生意気な発言に対して、すべて真摯に耳を傾け、私はこう思うということを語られる姿。俺のいうことが答えだ!といっても誰も反論はできない立場、地位でありながら、そうした振る舞い、言動は一切なく、また、ひよっこたちの発言に対しても小馬鹿にした態度は一切とることなく、理解しようと耳を傾け、言葉を重ねられる姿。

あの時、超一流の姿を見ました。

超一流ほど超謙虚。

2014年、弁護士業に復帰して、これまたおかげさまで活動範囲も広がり、様々な分野の様々な方々と接する機会を得ても、真理だと考えています。

自分が上だと思っている人ほど上が見えていないー実は相対的には下のレベルー、無知の知を知らない、自分の評価は他人がするものなのに自分で自分の評価ーしかも高評価ーをしているというパターンが見えてきました。

組織の中であれば、一緒に仕事をせざるを得ず、つかず離れずの距離をおきつつ、そうした人が気分良く働いてもらうために多少の腐心もします。

しかし、あえて一緒に働く必要がない場合は、そっと離れていきます。そうした人から学ぶことはあまりなく、自分の足を引っ張られるだけで時間を取られることが多くなってしまうからです。

5 選ばざるを得ない

40歳を超え、50歳も手前にもなると、当たり前ですがわがままになり、我慢することがなくなっていきます。

こちらの方だけが余計な気を使わざるを得ないようなタイプの人からは、そっと離れていきます。

人生の残り時間は限られているので。好き嫌いを基準として、判断していきます。

これはまた逆も然りで、離れていっている人もいるかとは思うのですが、ベストセラー「嫌われる勇気」ではありませんが、さすがにそんなことを気にする年齢ももはやなく。

下を見ずに、もっと上を見て、もっと上を目指していきます。

同じ志の人と協力して。一人でできることは限られています。チームのパワーを信じて。間違った人をバスに乗せてしまったら、降りてもらう決断もチームのためには必要です。自分が間違ったバスに乗ってしまったと思ったら、さっさと自分から降りる配慮も必要です。

こうした点、優柔不断さがなくなっていくのも年の功なのか。

(おわり)