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「いろは歌」


まったくと言っていいくらいに 何かを想ったりイメージしての制作ではない

糸が一本ずつ 次へと続くような経過

出てきたものを書き止めて翌日鳴らす
鳴らすとイメージが既にそこにある
その時 初めてイメージが頭に浮かぶ

そして ふと 夢の世界に入る

晴れではない
雨が降っている
雨は激しくはない
柔らかな雨
緑の葉
葉は緑だから 秋でも冬でもない
時間はわからない
わからないままなのかもしれない

何の規制もなく
自由に
調性が曖昧で 臨時記号がついたりとれたりする

不思議な感覚で 常に自分はこの中の主体ではない

ないものをつくるということは少しずつです
焦りとか 何かに追われるということもない
少しずつだけど 次の糸が出て 今日を終える
翌日には 前の日にはなかったものが
その糸から生まれる

そんな作業

もとの作品からしたら
もとの曲に親しんでいる人からしたら
受け入れられないんじゃないか
‥という不安はあるけれど

私には
この新しい響きが
この先どうなるのかという楽しみがその不安よりも大きくて

川が流れるように
水気に満ちた今の気持ちがとても気持ち良くて

気がつけば時間が過ぎている

そんな日々

2015/11/25のメモ

御詠歌をピアノで弾くということとの出会いはとても突然でした。知っている曲はなく 聴いたことがある曲は 祖父の葬儀の時の「追弔和讃」。幼い頃の記憶で ただ感動したことのみで 旋律は覚えていない。
「いろは歌」は何故か知っていた。
初めての試みとしては 私にはとりかかりやすいと思った。

色は匂えど 散りぬるを
我が世誰ぞ 常ならむ
有為の奥山 今日越えて
浅き夢見し 酔ひもせす

弘法大師が作詞と伝えられるこの歌詞に 永井幸次さんの美しい旋律。どこで聴いたか 何故かみんな知っている素晴らしい作品。

この旋律をピアノで編曲していくうちに自然に生まれてくる別の旋律には私の中での別の詩が浮かび 楽譜にはその詩も書き込んでいる。

夢を見た 色は空 
ここにない ここにある
蝶の夢 束の間に
永遠に ここにある
夢を見た ここにある
色は空 永遠に

この作品を編曲していると 相反するものが同義という感覚が強く湧きました。

夢↔︎ここ(現実)
色(有彩)↔︎空(無彩)
空(天の世界)↔︎ここ(地上の世界)
ここにない(過去)↔︎ここにある(現在と未来)
あるいは
ここにない(現在と未来)↔︎ここにある(過去)

蝶の命からすれば 蝶の見る夢ははかなく束の間
しかし
蝶が夢をみたという事実は消えなくて 永遠に存在する

どこかに荘子の「胡蝶の夢」をなぞらえていたのだと思うが それにしても この編曲をしていた時の時間は不思議な世界にいて その時間は美しく幸せでした。

夢と現実が同時に進行しているような 時空のねじれみたいな感覚を覚えながら
水に浸した画用紙に絵の具を落とした時のにじみのような音色で弾きたいと思って2015/12/14に演奏しました。


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