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「同行二人 その壱」

「楊柳」と「同行二人」
一部の節回しを除いて同じ旋律

「楊柳」の編曲を終えて すぐに「同行二人」の編曲を始めた。

「楊柳」を編曲している時に思ったことがあった。

背景となる響きに陽旋を選ぶか 陰旋を選ぶかによって 同じ旋律でも違う曲のようになるのではないか

それを忘れないうちに取り掛かりたかった。

あなうれし
行くも帰るも
とどまるも
我は大師と
二人連れなり

「楊柳」より「同行二人」の方が明るい響きになる予感があった。

編曲していて対旋律が自然にどこからともなく生まれてきてとても楽しかった。
こういう感覚がとても好きだ。

完成したものは 予感通り農村風(田舎の景色)を感じるものだった。

楽譜には

高らかに空のうた
晴れやかな気持ち
迷い
空にとばして
空のうた
大地のうた

と 書き込んでいる

この編曲を始めた当初から
歌詞「南無遍照尊」以降は 「楊柳」と全く同じにしたいと思っていたので そうした。
この部分は
「楊柳」では (参考にさせていただいた録音のお声の美しさのため)天女の歌のように感じた。
全く同じなのに
「同行二人」では 空のうた 大地のうたのように感じた。

お手本にお送りいただいていたお唱えに合わせて2019年6月25日に弾いた。

この旋律の作者である曽我部俊雄さんについて

曽我部さんは 天才なんだろうなと強く思った
陰をつくるタイミングといい分量といい
何よりも
お唱えされる方々や
私のように編曲してみたいと思う人間に
それぞれが感じたり考えたり
それぞれが表現できる余裕というか隙間をつくって作曲なされている

きっと周りの方々への接し方やさまざまなことも
そのようになされる方だったんじゃないかと思った

作品から見える(あくまでも想像に過ぎないが
生き方を想像し もっとこの方を知りたいと感じさせる)人物像にとても学ばせていただくことは大きい

この方の作品を多くの方々に知っていただきたい
そして
後世に遺していくべきだと思う

20190626のメモ


どこに向かうかわからない編曲で できあがってからの気づきを いつもとても大切にしている。

この編曲からの気づき

「楊柳」には 人はいない
「同行二人」には 人がいる

そのイメージを抱いて ピアノのみで 2019年7月9日に弾いた。

この過程の中 御詠歌の歌謡法というものについて 少し思いを向けることになった。

これは私見ですが
歌謡法は もともとは「絶対にこうしなければならない」というものではないのではないか?と思っている。
旋律を心をこめてお唱えするうちに
「こうした方が私はお唱えしやすい」とか
「こうすると気持ちが伝えやすい」とか
自然に形を変えて生まれたものではないか?
と思っている。

長い年月をかけて 唱え継がれていく間に 素晴らしいお唱えをされる方々の使われる歌謡法の中から淘汰されて書き記され 現在に至るのではないかと思っている。

お唱えされる方それぞれで タイミングや音程幅が異なるのは当たり前で こうでなければならない(その通りにできない方もおられるだろう)ものではないのではないかと思っている。

とは言え 好き放題にやって良いわけでは絶対にないから そのために記されているものなのではないかと。

そうなると 参考にさせていただくお唱えそれぞれにより抱くイメージは変わる。

そうなると‥

とても無力感を感じた。

そして 逆に私がやっていること つまり手を加えること(=編曲)も そのことによる先入観の植えつけに繋がるのではないかと愕然とした。

もしも先に私のピアノを聴かれたら ご自身のお気持ちに関わらず無意識に自分らしさを出しづらくしてしまうことになるのではないかと思った。

「自分らしさ」についても同様に
反転すれば 私自身にも言えること。

ぐるぐる回り始めたので しばし 内省の期間を置いた。
そして ほぼ4ヶ月後。
この「同行二人」という作品を 先入観を捨てて 別のアプローチで編曲してみることにした。

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