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島めぐり

 夏の日差しを感じ始めると海の匂いが恋しくなる。
海水浴と美味しいものを求めて、これまでいくつの島を訪れたことだろう。
 岡山県南西部生まれの私は、幼い頃から夏になると両親に連れられ、北木島や白石島、鞆の浦の仙酔島などの島に海水浴や船釣りに出かけた。
 大阪で結婚して2人の娘が生まれてからも、淡路島や小豆島はもちろんのこと、鳥羽の答志島や瀬戸内の鹿久居島、男鹿島、生口島等など、小さな島を訪れては穏やかな時間の流れと人の温かさに癒され、緩やかな海とその土地ならではの料理やお酒を堪能してきた。
「島の魅力は?」と、誰かに聞かれたら、海外旅行に出かけた時のような高揚感はないものの、言葉では表せない「心からホッとできる、ふあっとした時間」と答えるかもしれない。

 その原点となったのは、学生時代に3度も訪れた与論島だ。
当時は沖縄返還前で、ヨロンは日本最南端の島だった。2つ上の兄が友人と初めてヨロンを旅し、その土産話に魅了されたのが始まりだった。
「めちゃくちゃ暑い島やったで! 与論島という南の島。どこまでもエメラルドブルーの海と白い砂浜が広がってて、その砂は全て星の形。遠浅で何キロも先まで歩いて行けるし、カラフルな魚があちこちで泳いでる。ちょっと潜ると、すごい色とりどりのサンゴ礁がブワーっと広がってな、夢みたいな島があるんや! ぼーっとしてたら、ヤケドするぐらい日焼けしてしまうで」と。

 そこまで聞いたら、自分の目で確かめるしかない。学生時代、リュックにキャンプ道具を詰め込んで、3度ヨロンへの旅に出た。今のようにホテルも、民宿も、空港も何もなく、まったく観光化されていない自然のままの島の生活が満喫できた頃のことである。
 バイトで得た2~3万円のお金を手に、大阪駅から急行電車を乗り継ぎ、一昼夜かかって西鹿児島駅に到着。西鹿児島からは船(船底の三等席)に2日揺られ、やっと島にたどり着くという貧乏旅行だ。

 最初の旅は部活の連中5人とわくわくしながら出発。途中からは同じヨロンを目指すという東京からの3人組と意気投合して8人旅に。3日をかけてたどり着いた小さな島は、夜も11時を回り真っ暗闇だった。
 船底の旅から解放された私たちは余りの嬉しさに、「キャー、ヨロンに着いたぞ~!」と、荷物をほっぽり出して白い灯台近くの海へ。「行くぞー!」という誰かの掛け声につられて、服を着たまま暗闇の海へ飛び込んだ。ただ、私は足の届かないところでは自由に泳げない現実を瞬間に思い出し、一人で慌てまくった記憶がある。

 夜明けには島で最も美しい海岸といわれる百合が浜に向かった。簡素なキャンプ場でテントを張り終え、低く茂る樹木の間を通り抜けて海へ。そこには圧倒されるような青い青い透き通った海が広がっていた。どこまでも、どこまでも続いて、あまりに美しすぎた……。さらに緩やかな波とともに、もしかしたら永遠に海の中を歩いていられるかのような遠浅が続いていた。
 しかも、どこまでも続く白砂の浜は、手に取るとサラサラと流れ落ち、すべて星形をしているというのだから、まさに夢の国を訪れた感覚だった。夜になると満天の星に酔いしれた。

 ヨロンでは、不思議な食べ物にまつわるエピソードも多々ある。
 最初の旅は、運悪く台風にぶつかってしまい、西鹿児島で足止めを食らってしまった。台風が来ると、船は2日も3日も欠航してしまうのだ。
 時間だけはたっぷりあっても金銭的余裕のない我々は旅館代などなく、1泊250円という鹿児島大学学生寮での宿を紹介してもらった。各地からやって来た若者たちとの雑魚寝だった。
 思いがけない時間ができた我々は、鹿児島見物でもしようと近くの繁華街をブラブラ。お金もないのに喫茶店に入った時のこと。みんなコーヒーを注文したが、先輩の一人がなぜかウィンナーコーヒーをなどと気取ってしまった。
「はい、かしこまりました」と丁寧なマスター。
 コーヒーはすぐに運ばれてきたが、ウインナーコーヒーは時間がかかった。カウンターではマスターが下を向いたまま、懸命に何かしている。
 業を煮やした先輩は大声で、「ウィンナーコーヒー、まだですか?」。
「はい、ただいま!」
 やっと来たウィンナーコーヒーを手にした先輩が「えっ!」と驚きの声。思わずみんなでカップの中をのぞき込んでみると、「えっ!!」。
 コーヒーの上にはホイップした生クリームなどなく、油炒めしたウインナーソーセージの細切れが浮かんでいた。「話の種に」と先輩は、我々の熱い視線の中で、特製のウインナーコーヒーを顔をゆがめながら飲んだのである。

 2回目は友人2人で訪れた。島の雰囲気にも慣れ、探索でもしようと散歩していた時のこと。古い民家の庭に迷い込んでしまい、家の縁側でうたた寝をしていたおじいさんと目が合ってしまったのだ。バツが悪い思いで「こんにちは」と挨拶すると、手招きをしてくれる。「あんたら旅行者か?」と問われ、「飯でも食って行け」と誘われた。
「えっー、なんで~?」と遠慮がちに縁側にかけさせてもらっていると、お盆に入れて運ばれてきたのはお茶漬けらしきものだった。どう見てもご飯の上にかかっているのは、「かっぱえびせん」なのだ。
 「遠慮なくいただきます」と箸を進めながら、「海老のダシに塩味も加わって、お茶漬けの素の代わりなんや」と自己判断しながら、初めての味を味わった。私たちの食べっぷりをじっと見ていたおじいさんとはあまり会話もできず、「ごちそうさまでした。美味しかったです」と礼を言い、別れを告げた。
 ただ、それだけの時間なのに、質素でも人をもてなそうという島の生活が垣間見えて、ほっこりとした思い出をもらったのだ。

 所変われば、習慣も食べ物もさまざま。当時のヨロンは言葉では表現できないほどの自然を満喫できたが、当然のことながら暑く、日を重ねるごとに若い私たちもあまりの暑さにひれ伏してしまった。南の島で質素に暮らす人々の生活にふれ、その過酷さも痛感した。
 しかし、夜空に広がる満天の星、延々と続く青い海、色とりどりのサンゴ礁。カラフルなヒトデや魚群……、その自然はそこに生まれた人にとっては揺るがない故郷の大きな財産だ。
 青春の真っ只中でその自然にふれさせてもらった私たちにとって、そのピュアすぎる光景は、後の人生で何があっても立ち直らせ、前進させてもらえる大きな原動力となったことは間違いない。
 何かあるごとに思い出す、南の島に感謝である。


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