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父の食器棚

 父が逝ってもう30年あまり、母が逝って20数年になる。
 父も母もずいぶん遠い昔の存在になりつつある今、自分自身が高齢者となって、ことあるごとに思い出すのが幼い頃の父と母の姿である。
 時折蘇るのは、大きな材木を軽々と片手で持ち、半ズボンの仕事着姿で笑っている若い父の姿だ。「お父さんも若かったなあ……」と。
 建具店を営んでいた我が家は、店と住まいの間に作業所があって、いつも木材を切る機械の音や金槌を打つ音などが、BGMのように住まいの方に聞こえていた。
父や7~8人の職人さんが働く姿が日常にあったのだ。
 職人さんは一つの仕事が終わると、母屋にいる父の元に来ては「次は何をしましょうか?」と尋ねていた。そこで父は、綿密な設計図どころか、建具や家具の簡単な図に寸法だけをサッサと手書きした薄い紙を手渡していた。
 それで、なぜしっかりとした建具や家具が完成するのか、父に聞いておくべきだった。

 よく覚えているのは、一人の職人さんが七輪に弱い火をおこして座り込み、1本の四角く細い棒を日がな一日あぶっている姿である。きっと木をジワジワとゼロ点何ミリずつ曲げていく「曲げ木」の木工技法だ。たとえば額縁や家具の角の部分、椅子の丸い背もたれ部分などに使われるもの。
 作業所には通り道に大小の何枚もの木材が立てかけられ、一段上にある職場の壁にはカンナやノコギリ、ノミなどの道具類がズラリと並んでいた。その音も光景も私の原風景である。

 そういえば、もう何十年も使っている私の仕事机も、「ボックス2つに、上に長い板を置くだけのものでいいから」と、父(正確には職人さんか?)に頼んで作ってもらったものだ。
 すぐ隣に置いている資料入れは、やはり父が作った自慢のヒノキの水屋である。
本来なら茶道具などを入れる風流な家具なのだろうが、私は自分の作品や雑誌の切り抜き、各種資料、伝票などを申し訳ないほど押し込んでいる。
 金具類は一切使っていない、木組みの水屋。観音開きなっている扉も、木ねじをくり抜いた穴にはめ込むだけで、寸分の狂いもなく開け閉めできる。
 指物師だった祖父から父に、そして職人さんに受け継がれた「技」なのだろう。

 そう考えていたら、遠くにいってしまったと思っていた父が、随分近くで見守ってくれていたことに改めて気づかされる。父も父で、「やっと気づいたんか?」と笑っているのではないか。
 さらに、である。結婚する時にも、食器棚と和ダンス、洋服ダンスの3点を父に作ってもらった。姉たちがピカピカの婚礼家具なるものを揃えてもらっていたのを見ていたせいか、私はもっとシンプルで落ち着いた家具を選びたかったのだ。
 ちょうど雑誌『アンアン』で紹介されていた、洋風なごげ茶の木肌の家具の写真を父に見せて、こんな感じでと頼んだものである。
 その中でも毎日使う食器棚は、自分の持ち物の中でも自慢作。扉を開いて使ったお皿やグラスを収める時、もう数十年も毎日使っているものなのに、なんとも言えない優しさに包まれる。
 実際に作ってくれたのは家具職人さんではあるが、父の想いも充分染み込んでいる家具たちなのだ。
 毎日バタバタと忙しく暮らす中で、そんな素敵な家具に包まれて暮らしていたことも、改めて気づかされる。父の温もりが籠もった生活用具と、両親が亡き後も一緒に暮らしているなら、両親に包まれて暮らしているようなものである。
 そんな重大なことに今の年齢にならないと気づけない、愚かな私である。

 父と末娘である私との関係とは、いったいどういうものだったのだろう。母との関係のように深く日常の生活を語ることもなければ、くだらない話に時間を費やすことも、自分の深い思いを議論し合うこともなかった。それでも、生活の端々で見せた父の顔や言葉が、幾つになってもいつも断片的にこぼれるように飛び出してくるのである。

 私は高校卒業後、関西の短大に入学し、そのまま大阪で就職した。コピーライターという親には想像もつかない職種に就いて3年。突然「会ってほしい人がいる」と、両親の気持ちなど考慮することなく、実家に同行したのが現在の夫である。
 大学卒業後、就職したばかりというまだまだ大人になりきれていない、父にとってはどこの馬の骨とも知れない青年だった。しかも、ジャズ喫茶などと親からすれば危なっかしいアルバイト先で出会った相手だった。

 新幹線とバスを乗り継ぎ、わが家を訪れた青年は、ガチガチに緊張しているにも関らず、傍目にはかなりリラックスして見えたようだ。母が用意してくれた焼き肉を、いつも腹ぺこの若者らしく美味しそうに頬張り、平らげ、次々と継ぎ足される酒をそれは美味しそうに飲んだ。
「遠慮も何もないの」と思われるほど、飲んだ。緊張しているとなど誰も思えないほどの飲みっぷりだった。そして、お決まりの飲みすぎてのゲロ状態に。
『あ~あ、調子にのってしもて……』
 と、ため息をつくのは私だけ。温厚なはずの父が、何も言わずにふっと家を出てしまい、深夜まで帰らなかった。後で母に聞けば、一人で近所の飲み屋に行っていたらしい。
 きっと「ああ、末娘も嫁に行ってしまう。しかも、ああいう男と……」と嘆きながら、美味しくもない酒を飲んだのだろうか。だが、後々にも結婚を反対することは一切なかった。

 父の熱く深い気持ちは、私からすれば「察する」とか、「おもんばかる」しかないのだが、その後も父の本音を聞く機会もなく、聞こうともせずに結婚へと進んだ。でも、だからこそ、彼との生活を頑張ろう、2人で一生懸命生きなければと、私には重石となったのだと思う。
 そして、6月の花嫁は幸せになれるらしいという雲をつかむような伝説を、ただそうあってほしいぐらいの感覚で、父の腕を借りてバージンロードを歩み、古い教会で式を挙げた。
 幸せだったかどうかの結論はまだ出ていないが、我慢強くない性格の2人がここまで来れば腐れ縁にしろ、幸せに近いのだろうと思い込んでいい年齢になってしまった。つけ加えておけば、生前父は夫のことを随分気に入っていた。
 
 毎朝、目を覚ますと、枕元に置いたタバコ盆のキセルで寝起きのタバコを吸っていた父。着替えると、一番に庭に出てラジオ体操。昼食は好物のうどんを毎日食し、食後は30分の昼寝。規則正しい生活を好んだ。
 その父の寛ぎは、毎日午前10時と午後3時に煎茶をたしなむことだった。馴染みのお茶屋さんに出向いて買い求めた軸茶を、細長い木製盆に5客並んだ萩焼の煎茶器で楽しむのだ。
 鉄瓶で沸騰したお湯を湯冷ましにし、急須に入れてたっぷりと時間を置き、5つ並んだ小さな湯のみにそれは愛おしいそうに少しずつ接いでいく。そして、甘くて渋いお茶をゆっくりまったり美味しそうに味わいながら、お茶休息を楽しんでいた。
 その時間をめがけてやって来る客人に「こんなに美味しいお茶は余所ではいただけません」などと言われると嬉しそうだった。そんな風流な面もあった父だが、相当に細かい人でもあった。とにかく無駄使いが嫌いなのだ。

 当時はまだまだ貧しい時代で、私たちの夕食のおかずが1~2品だけという日でも父用には酒の肴に毎夜用意されたお刺身。そのお刺身につける醤油は、「最後の一切れを食べ終わる時点でなくなるだけの量を見計らってお皿に入れるべし」という人だった。
 お腹がいっぱいになれば、お刺身一切れでも残し、焼き肉用のタレも水炊きのポン酢も、声に出して注意はしないけれども、必要量以上に使うのを嫌った。
 食後使った爪楊枝は仕事用の机の引き出しに直し、専用の小振りのナイフで先を削って、何度か使っていた。当時のちり紙も、使い足りないと思えば自分の引き出しに直し、もう一度使っているのをたびたび見たことがある。私が近所の友だちに電話をしていれば、そんなことは直接言いに行きなさいと叱られ、長電話をしていれば父の視線が気になった。

 習性というものは恐ろしい。飽きれて見ていたはずの私が同じようなことをしてしまう。指先のちょっとした汚れを取るためにティッシュをパッパと使う娘を横目に、もったいないと思ってしまうのだ。
 ラップは必要な量しか出せない。一度かけただけのラップなら、食器洗いの時お皿の汚れ取りに使えるからと置いておく。きれいなままのナイロン袋をそのままゴミ袋にはできないし、シャンプーも歯磨き粉も、マヨネーズも、逆さにして最後まで使わないと気が済まない。  
 古くなったタオルやTシャツを使い捨て雑巾にと切って取りおくのだが、裏も表もしっかり使う。家計はどんぶり勘定なのに、部分的には究極の「もったいない精神」の持ち主である。

 ノーベル平和賞受賞者でケニアの環境副大臣であるワンガリ・マータイさんによって、日本ならではの「もったいない」という言葉とその精神が世界的に広まった時には、「よくぞ見つけてくださいました」と握手を求めたい心境だった。でも、よくよく考えてみれば、なぜ言い出しっぺがいちばんよく分かっているはずの日本人じゃなかったのだろう。
 
「もったいない」といえば、忘れられない話がある。
 今は亡き母方の叔父が、岡山県庁に勤めていた現役時代のこと。確か産業課だったと思う。岡山の名産品である桃やぶどうなど農作物の収穫促進の仕事をしていた叔父は、その年の状況や収穫予想などを調査するため、地域の農家を一軒一軒回り、お百姓さんから生の声を聞いて歩くのがひとつの仕事だったという。

 真夏の暑い日。太陽が照りつける中、うるさいほどのセミの声を背に、いつものように1軒の桃農家を訪れた。
「こんにちは。お暑うございます。今年の桃の調子はどうですかのう」
 土間に入って、いつもの挨拶をしたという。
「ああ、これは◇◇さん。いつも、ご苦労さんです。あいにく若い者はみんな畑に出とりますが、外は暑いですけー、まあ少し休んでお行きんなせい」
 愛想よく迎えてくれたのは、一人で留守番をするおじいさんだった。
 額から汗を流す叔父の暑そうな様子に、おじいさんは冷たいものをとでも思ったのだろう。奥に入り台所でカチャカチャという音を立てていたかと思うと、ガラスのコップに白い飲物を入れて持ってきてくれた。コップには水滴がついていて、よく冷えていかにもおいしそうだった。
「何もありゃあしませんが、まあ、どうぞ」
「ああ、それはそれは・・・・・・」
 叔父は「これは何だろう」と思いながら、瞬間的に「牛乳?、それとも乳酸飲料?」と迷ったそうだ。土間に腰掛けさせてもらいながら、「ああ、ありがとうございます。遠慮なくいただきます」とコップを手にした。
「どうぞ、どうぞ、お上がりなせー」
 さあ、飲もうと口に近づけたとき、フッと何かが匂ったが、ノドが乾いていた叔父はゴクリ……。
 一気に飲んだところ、それは摩訶不思議な味だったという。牛乳のようでもあるが牛乳ではなく、口ではうまく表現しにくい味。つまり、叔父の長い人生のなかでも、それまで口にしたことのない味だった。
 味というのは、「この味!」と断定できなくても、何かに似た味とか、妙に懐かしい味というのがあるものだが、それも思いつかなかったそうである。
「すいません、おじいさん。これはいったい何ですかのう?」
 思わず聞いてしまった叔父。
 おじいさんは微笑みながら、
「ヨメのチチですわー」
「嫁の? チチ・・・・・・?」
「ええ、うちの嫁の乳がよう出て捨てるのももったいないんで、冷蔵庫で冷して家族みんなで飲んどるんですよ」
 おじいさんから屈託のない返事。
「・・・・・・・・・・・。ほう、それはそれは……」
 叔父にとって、ほのかに甘い初体験だった。


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