2021/2/23

 言葉が暴走するので、少し自由に走らせようと思う。このままだと読書に集中できない。
 鬱になり始めたとき、私の頭の中は言葉で溢れていた。言葉がうるさかった。少し黙れと頭の中に対して言い、その黙れという言葉もうるさかった。どうすればいいのかわからなかった。眠ることが難しくなった。
 休むことで鬱が少しずつ治ってくると、言葉も少し静かになった。頭の中が静かになったことで、本が読めるようになった。今年に入ってから、本をたくさん読んでいる。私にとって、本が読めることはとても久しぶりだ。中高生まではよく読んでいた。白樺派の小説をよく読んでいた。志賀直哉が好きだった。だけど大学生になってから本が読めなくなっていた。読もうと思っても遅々として進まない。いきなり小説ではなく批評とか難しい本を読み始めたこともあるけど、それ以上に、言葉が飲み込めなくなった感覚があり、それはよく覚えている。またそれと並行して、何かを書くことも億劫になった。書くことは好きだった。頭の中をさらけ出すことも、「書く」という身体的な行為自体も。言葉が身体の中に入らなくなると、身体の中から出ていくこともなくなった。すると、すでにある言葉だけで生きることになった。大学生の終わりには、すでに自分の言葉に飽きていた。同じことしか言えないから。自分の言葉がつまらないと思い始めると、より一層言葉が出てこなくなった。
 大学を卒業して、働き始めた。大学で学んでいたことをそのまま仕事にして、働きはじめは幸せなことだと思っていた。だけど、その仕事に向いてないことが2年働いて、鬱になってわかった。楽しいこともあったけど、ストレスの方が上回ってしまった。そうして私は鬱になった。
 鬱になってからは、さっき言った通り、頭の中が言葉で溢れかえった。うるさかった。そして鬱が治って、言葉も落ち着いた。今振り返ってみると、言葉に対してとても無関心な態度でい続けたことは良くなかった。自分の言葉に付き合ってやるべきだった。私はものぐさなので、自発的に何かをすることを面倒だと思ってやらないことが多い。その性格によって、言葉を吐き出すことをしてやらなかった。吐き出さないと言葉はより暴走する。
 だから今は、頭が言葉で満ちたらそれを外に出すことにした。とりあえず書いてだす。人に話せるのであれば話す。それだけでだいぶ違う。外に出して、自分の言葉を客観的に見る。すると、頭の中を逡巡しているときには気づかなかったものが見つかる。それが今は楽しい。自分が書いたものを、書き終わってからまじまじと見つめ返す。そして我ながら惚れ惚れする。良い文章だ。面白い着眼点だな。など。言葉を出すのは、自己満足のためなのだ。
 「生きる意味は生きることそのものにある」。ので。私は自分自身のために生きる。当たり前のように思えるけど、社会に属して他人と生きている以上、それはそう簡単にはできないのだ。他人のために自分を歪める。これはとても苦しい。私はそうしたくない。不必要に自分を歪めないように、私は自分自身のために生きる。言葉を外に出すことは、自分自身への愛をより強めるために必要だと、今ではそう思っている。

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