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 Netflixで、『映像研には手を出すな!』のアニメを見る。まあー面白い。三連休で一気見してしまった。金曜日に衝撃。土曜日に正座。日曜日にはどハマりしていた。全話見終わったあと、そのままふらふらと家を出て、書店に飛び込み、今出ているところまで単行本全巻取り寄せしてもらった(売り切れていた)。また「攻殻機動隊」の漫画があったので、それも買った。押井守の映画と神山健治のテレビシリーズは見たことがあったが、士郎正宗の原作は読んだことがなかったし、ずっと気になっていたのだ。そして何より、映像研で完全に「面白いもの欲求スイッチ」が入ってしまっていた。
 映像研は、家で一人で座椅子に正座して、「面白いなあ、面白いなあ」とぶつぶつ言いながら見ていた。テレビシリーズは全部で12話あって、一日4話ずつ見た。
 二日目の土曜日に8話まで見終わり、テレビを消した時、真っ黒な画面にニヤニヤしている自分が映っていた。それを見た時に、ああ、なるほどと一つ腑に落ちるものがあった。
 それは何かというと、自分は「面白いものに接して、一人でニヤニヤしている瞬間」が人生で最も好きなのか、とわかったのである。
 音楽だろうと本だろうと漫画だろうとアニメだろうと、媒体はなんでも良い。とにかく自分を刺激で包んで、「面白い」という感情で満たしてくれるもの。そういったものに触れて、それに対する自分の考えや感想ー「ああ、あそこの演出は良かったな」とか「いや、あそこであれを出すのはズルいよな」とか「やっぱりあれはこれを意味しているんじゃないか」とかーで自分の頭をいっぱいにする。これが、最高。永遠に続けていたい瞬間だ。
 鑑賞するもの全てが、毎度それほどに面白いということはないが、そうした瞬間に出会うために多くのものを見たり聞いたりしようとしている。またいろんなものを見聞きした方が、面白いと思えるものが増える気がする。それは物の見方を覚えることにつながって、なんというか、自分で「面白い」と思う鑑賞の視点を探せるようになるんだと思う。
 最近、自分は中身のない、ただのフレームのようなものなんじゃないかと思っている。自分はあくまでフレームというか、細胞壁というか、あくまでそういったものでしかなく、その内側にある空洞を埋めるように、自分の外から色んなものが入ってきて、また自由に出ていく。自分はそれをひたすらに繰り返しているのだ。
 フレームの内側に入ってきたものたちは、出会い、反応を起こす。そして、何か新たな、異質に変化したものを生み出してフレームの外側に出ていく。外側に出てくるものは、言葉だったり、身体の動きだったり、形態は様々だ。
 それらはあくまで自分から出てきてはいるものの、どうにも自分が生み出したものとは思えない。どこかで勝手に生み出されたもの。そんな気がする。今こうして書いているものだって、まさしくそうだ。気付いたらこんなことを書いている。こんなこと書こうとも思っていなかったし、こんなに書くとも思っていなかった。
 じゃあ何を書こうとしたのか?と聞かれても、それもまた謎なのだ。むしろ、何に出会えるのか楽しみにしながら書いている。

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