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 『動きすぎてはいけない ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(著:千葉雅也)を読んでいる。難しい。常に「わかる/わからない」の間にいるような感覚があり、いつその両極にいくかわからない、そんな緊張感のあるドライブをしている。それが心地よく、楽しい。もしかしたら全く別のところにいるのかもしれない。
 全てはわからないが、部分的にはわかりそうなところもある。全体的な論の中で、その理解できそうな箇所がどんな立ち位置にあるのかはわからない。断片的な理解。つながらない。
 わからない箇所も、読む。場合によっては「読む」というよりも自分の中を素通りさせるだけになっている。ふとした瞬間に、何らかとの出会いによって、それらがわかるかもしれない。来るかどうかもわからないーーー何だったらその前に忘れてしまうことの方がよっぽど多いーーーにも関わらず、私はその瞬間の到来を期待して読書する。

 最初に戻るが、この「緊張感のあるドライブ」的な読書はとても疲れるし、自分の中で結構読んだ感覚があっても、振り返ってみると大した量ではなかったりする(読書で肝要なのは読んだ量ではなくそこから何を読み取ったか、であると私は苦し紛れに主張したい)。遅々として進まない感覚は、次第に読書から自らを遠ざけてしまう。「読む」よりも「読み切る」に重点を置いてしまっていることに気がつくと、少し虚しい気持ちになる。
 少し本を変えよう。本は「読み切る」必要はない。途中でやめても良い。
 別に私は専門家でもない。ただ読書が好きなだけなのだから、そこまで執着する必要も義務もない。読書している間にも、私の興味は常に変化している。その変化に素直に従うだけだ。
 そう自分に言い聞かせていかないと、私は読むことを途中でやめられない。飽きていることをすでに自覚しているにも関わらず。

 「途中でやめる」ことは私にとって難しい。食事が特にそうだ。満腹だから食べることをやめる。自分にとって美味しくないから食べることをやめる。こうしたことが中々できない。「綺麗に完食する」ことは、マナーとして大事なことだ。しかし、それは全てに勝るものではない。自分の調子に合わせて、完食よりも適度に食べることを優先させた方が良い場面も往々にしてある。私はそうした場面でも、やめることが中々できない。
どれだけ食べても、食べ過ぎて「吐く」ことはなかった。だから、出されたものはいつも全て食べ切っていた。病気の時でもなければ「吐く」ことはなかった。
 無理してでも飲み込むこと。決して戻さないこと。いつしか私は、辛い時に必ず「吐く」イメージを想起するようになった。現実で行わない行為が、イメージの中で憧れを伴って定着する。「吐いて楽になる」。でも自分の身体は「吐く」ことを許さないので、頭の中の私が「吐く」。楽になったつもりになる。ならない。それすらもならない。吐かれるものは、吐瀉物だったりタバコの煙だったり。タバコを吸ったことはないが、煙を吐くことは気持ちの良いことなんだろうと思う。タバコの楽しみは味よりもそこにあるのではないか。でもタバコは吸わない。なんとなく。イメージするだけ。
 こうして「吐く」イメージによって、私は限りなく薄い解放感を得る。
 ある時、誰かに「そんなに無理して食べなくても」と言われた。別に当たり前のことで、きっとこれまで何回も言われてきたことだろう。ただその時は何か私の心に響いた。無理してやりきって、後で戻してしまうのではなく、そもそも途中でやめること。「吐く」と自分にダメージが出る。「吐く」ときに自分の中から出てくるのは飲み込んだものだけじゃない。自分の一部も一緒に出てくる。だから痛みや苦しみも伴う。

 一時的な達成感ではなく、自分にとって良きところでやめる。それは食事に限った話ではなく。読書も途中でやめて良い。しかも読書はまた読む気になったら、興味を持ったら読み直せばいい。やめたくなったらやめて、他にさっさと移ろう。今起きた私の興味が失われる前に。眼前に執着するな。

日常の陽気さと思考の冷たさの狭間で寝返りをうつ。

 今日みたいに晴れて暖かい日の午後、私は部屋で寝っ転がって部屋の外の景色をただ眺める。窓を少し開ける。好きな音楽を、窓から入ってくる音に溶かすように小さいボリュームで流す。こういう時の音楽は柔らかいものにする。イヤホンでは聞かない。外の世界の音と自分が聞きたい音を同じだけの大きさで、同時に聞く。そしてぼんやりする。
 畳の上で寝転びながら、いろんな音を聞いたり聞かなかったり、何かを思い出したり思い出さなかったりする。頭の中が空っぽになった時、不意に心臓の鼓動が私の意識に入ってくる。鼓動に意識を向けると、だんだん全身が鼓動に同調して、いつしか全身で鼓動を打つようになる。身体が熱い。真っ赤な血潮が巡っている。緩めた身体が、花粉症の薬による倦怠感も合わさって、床に静かに沈んでいく。沈みながらも、私の身体は脈を打つ。どうやら私は生きているらしい。
 起き上がると、さっきまで一つになっていた身体が、元の通りにバラバラに解けていく。鼓動も小さくなった。さっきまで考えていた大切に思えることもどこかに行った。

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