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「酔ってやったことだから許して」「睡眠不足でぼんやりしてたから許して」みたいな振る舞いは法律では「原因において自由な行為」と呼ばれる

コレの続き。

こういうの昔法律で習ったなと思ってたらさっき思い出しました。

「原因において自由な行為」だ。

心神喪失者や心神耗弱者が不法な行為を犯した場合、刑法第39条の規定により犯罪不成立もしくは刑の減軽となる。しかし、車を運転することを予定しながら飲酒により泥酔し、そのまま自動車を運転して事故を起こした場合、刑法39条の規定を適用せず即座に危険運転致死傷罪が成立し、心神喪失(心神耗弱)状態であったにもかかわらず完全な責任が問われる。また、「泥酔した状態で人を殺そう」という計画を立て、凶器を用意して酒を飲み、計画どおり泥酔状態で殺害に及んだ場合も殺人罪が成立し、刑法39条を適用しない。

これ実生活で役に立つことはないかもしれませんが、「未必の故意」と並んでめちゃくちゃ面白い考え方なので、インターネットでそういう言い訳してる人をみかけたら思い出してください。

これ大学2年で初めて知ったときは「おもしれー」ってなりましたね。


繰り返しになるけど、酔ってSNSをやって失言しちゃったらアウトです。酔ったからで許されるというルールはありません。感情が高ぶりすぎて云々とかも情状酌量の余地はあっても違法性阻却要因にはなりません。

法学部出身者はこういう「原因において自由な行為」概念とか「善意悪意」概念とか「~~の濫用法理」みたいなのが大好きです。


弱者のお気持ちとか「大衆の意見」が通りやすいSNSにおいて語られる平等とか差別反対というのは偽物が多いです。普通の人が口にする平等とか反差別は「自分」視点が多く、非常に理不尽なものが目立つのですが。こういうのは「低い視点から見た平等」です。

法というものは完璧ではないものの、一般人が自分で考えるよりも高い視点から国民を可能な限り平等に扱おうとします。普段の自分とは違う視点で物事を考えるということができて楽しいのですね。


ついでだからこの記事の続きも書きますか。

みなさんは、法が理不尽に思えたことがありませんか?これは、法が完璧ではないからというのはもちろんあります。(特に今みたいに社会の変化が早いと最新の財産権の考え方とかには全然法は追いつけてないです)

ただ、日常レベルで言うと「稀に自分側が強者の立ち位置に置かれ、ハンデを背負わされることがある」からというもあります。

基本的に我々庶民は「弱者」という立ち位置を得られることが多いです。そして意識してかせずしてか、その立場に慣れてしまいがちです。実際、大概のケースでは法は意識しなくても守ってくれていることが多いのです。基本はぼーっとしててもいいのです。ほとんどのケースでは法は我々庶民を優遇してくれます。特に憲法はそういう趣旨のルールが多いですね。

でも、いくつかの条件を満たすと法は表情を変えます。「いや、あなたはこの関係性においては強者だから。強者なのに注意を怠ったんだからあなたのほうが悪い」という責任が生じるケースがあります。 この立場になったらあなたはもう弱者じゃないから法はあなたを守りません、むしろあなたには厳しくするよってなるんですね。


ここに大人と子ども、強者と弱者の境界があるわけです。


こういう境界線を学ぶことによって、個々人の勝手な定義ではなくて「この国では、大人というものはこういう条件で定義されているのか」ということがわかってきます。

大人というのは守られる側じゃなく、責任を社会に肩代わりしてもらうものではなく、自らが積極的に責任を持ち、守る側になることなのだということを実感できます。

ま、本当はそういう綺麗事ばかりじゃないんですけどね。法を悪用する人なんかのニュースは色々ネットでも見たことがあるでしょう。


浅くでもいいから法律を学ぶ過程で「自分は全てにおいて弱者というわけじゃないんだ」ということはなんとなく感覚で身につきます。

自分を弱者サイドにおいて、何でもかんでも社会の「タテマエ」に守ってもらおうとするのは子供だってことがわかってくるだけでも結構面白いですよ。


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