見出し画像

とても嫌なことがあって結構な人間不信になった話

何かを教える時「理解した人」は感謝してくれる。

これはいい。

でも「理解できなかった人」は感謝しないどころではなく
むしろ間違った学習をしてしまうし、
その結果、教えたこちらを恨み、しつこく否定してくることすらある。

であれば。

「この人には私が伝えようとしていることは理解できないかもしれない」と思った人に何かを教えようとすることはリスクでしか無いのではないか。


今までは、たとえ教えようとしたことが全く伝わらなかったとしても、それが0以下にはならないと思いたかった。

でも、0どころかすごくマイナスになることもある。


そんなん当たり前じゃんって思われるかも知れない。

そりゃそうでしょう。頭では分かってます。

でも私はあえてここからは目を背けて生きていたのに。

その嫌な部分を見せつけられてしまってとてもげんなりしてる。

今まで通りにブログとかnoteを更新するのが
すごくバカバカしく感じられきた。


コストは掛かるが見返りも大きい世界では自己責任が成立する

もともと塾業界でもこれは有名な話だ。

塾講師でも進学校の教師でも、頭の良いゾーンを担当する人は、教えること自体は楽ちんだしやりがいもあるのだ。なんでかというと、生徒が優秀だし、やる気もあるからだ。

成果に責任を持たないといけないという苦労はあるが、余計なことで足を引っ張られることは少ない。自分の努力と成果はかなり比例関係になる。サボれば成果がおちてペナルティを食らうし、頑張れば成果があがってご褒美がもらえる。非常にシンプルな世界だ。 先生がそういう考え方だから生徒も自然とそうなっていく。

そうやって高学歴の世界は自然と「自己責任」という考え方が自然と浸透していく。本当に裕福で、競争する必要がない人たちは別だが、中流家庭から競争に勝ち上がることで上を目指す人間は、自然と「自己責任」の考えを強めていく。むしろそういう考え方でないと生きていけない。


コストが掛かりすぎる上に見返りも小さい世界では良い意味で諦めて「他人のせい」にして省エネな生き方をするほうが賢い


一方で、底辺の学校や底辺ランクの偏差値の生徒を担当する生徒は、まず授業を受ける気にさせるところから苦労する。勉強を始める前からいろんな障害がたくさんある。

自分がどれだけ頑張ってもそれ以外の要素が大きすぎて素直に成果に反映されない。場合によっては逆効果になることさえある。ズルをしたり要領よく手抜きをした人間のほうが成果が出たりすることもある。真面目さがダサイと言われ、努力が嘲笑われることもある世界だ。

こんな世界で自己責任なんてとても信じられなくなる。こちらの世界にいると手抜きをしたり、頑張らないことのほうが賢いと感じられるようになってくる。どうせ自分が頑張っても自分の努力ではどうにもならない。多数派に迎合し、いろんなことを他人のせいにし、匿名で人をdisるときだけイキイキする。倫理よりも空気が大事。

そういう世界に生きていると自己責任の逆の考え方が強くなる。つまり「私は悪くない。悪いのは私以外の誰かだ」だ。常に被害者意識によって自己を正当化し、誰かを攻撃することで心の安寧を得る。そういう生き方に適応していってしまう。


自分は自己責任の世界でも安全に諦めた世界でも生きられなくて、もういい歳なのに中途半端なところでフラフラしている


とここまでは一般論で、ここからは私の話。

私は途中までは何を間違ったか高偏差値の人たちに混じって生きていたから自己責任を信じてなんとか頑張ろうとしていた。

しかし、体力のなさや発達障害などの問題があって途中で挫折した。

その後はみごとな転落だ。

なまじ無理して自己責任の世界で粘って死にかけたので、反動で被害者意識の塊みたいな人間になった。

しかし、無理に適応しようとしても無理だった。自己責任の世界には戻れないにしても、被害者意識だけで生きていけるほど図々しくはなれなかった。むしろ他人のせいにすればするほど無力感が強くなって苦しかった。

あまりにも苦しいからなんとしても被害者意識からは抜け出すことだけは決めた。

自己責任の極みである個別株投資はとても肌にあった。
最初は下手くその極みだったが、勉強するようになってからはちょっとずつ勝てるようになってきた。

とはいえ、最初に負けすぎたし停滞期間が長かったから、投資だけで生きてけるという自信も持てなかった。

何もかもが中途半端なままだった。被害者意識も嫌だし、かといって自己責任で生き残れると自惚れられるほどもう自分を信じることは不可能だった。

というわけで、数年前からは「嘘でもいいから利他的に行動しよう」「情けは人の為ならずという嘘みたいな考え方を信じてみよう」と考えた。


仕事とボランティアだけの生活を送ったこともあるし
発達障害支援のしごとをやってみたこともあったし
みんなが見捨てた粗大ゴミことMさんの世話も投げ出さずに続けたりした。最近はYouTubeで情報発信したりもしてみた。


半分くらいは自己責任で支えつつ
残り半分くらいは誰かに必要とされることで支えてもらおうととか
スケベなことを考えていた。
そうやってなんとか寿命が尽きるまで
孤独を紛らわせつつ生き延びたいなと思ってた。


先月くらいからとても嫌なことがあってそこも揺らいでいる

「学ぶ気がない人間に物事を教えるのは時間の無駄になるだけじゃなくて、逆恨みされるリスクまであるのだな」と感じた。


最初は裏切られたって思ったけど、

冷静になってみると

自分が勝手に見返りを求めてて
それが得られなかったことに逆ギレしてるだけと気づいて
とても恥ずかしくなった。


とはいっても、少なくとも他人に抱いていた幻想は壊れた。



正直「不惑」とか言ってる場合じゃなくて、どうしたらいいのかよくわからなくなっている。

ありもしない見返りを求めてたのは自分だから
それは勘違いをしていた自分が悪いのだけれど
かといって期待していた見返りがまったくないのであれば
今の生き方は持続不可能だと思う。


ただ、とにかく決めたことがある。


もうあんまりPay Forwardの考えはできない。


あまり他人を信じられない。


こっちが先にたくさんいろんなものを渡していれば、将来的に自分を助けてくれるだろう・・・とかあんまり思えなくなった。 別に助けてくれないだけならいいけど、感謝もされず、しかも逆恨みするようなやつがいるとなると、もうリスクでしか無い。


今後人に教える時は「理解するまでちゃんと話を聞こう」つもりがない人にはちゃんと教えたくない。


お客様感覚の人に無償で何かをしてあげることもない。


こちらが聞いてくれと無理やり押し付けてるならともかく、教えてくれと言われたから教えているのに、なぜ話を聞いてもらうために相手の機嫌を損ねないように気を使わないといけないのかよくわからなくなった。


言っていることが間違っててそれを批判されるとかならそれはこちらが悪いのだが、向こうの機嫌を害したというそれだけの理由で、嘘の情報をばらまいてまでこちらを貶められるのはさすがに許容範囲を越えている。


ブログやnoteは別に人に教えるためにやってるわけじゃなくて自分のメモだから今までと何も変わらないけれど、YouTubeや1対1で話をする時は、「学びたい」という意志がない人のことはもう知らん。



以下は気分が落ち着くまでは封印状態にしておきます。とにかくかなりムカついてます。

ここから先は

2,385字 / 1画像

¥ 50,000

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?