「社会的責任(SR)」という言葉を企業や政府ではなく個人に向けて発することに違和感を感じない人間は尋常じゃなく怖い

「社会的責任」って言葉がやたらと飛び交ってるからなんだと思ったらこれか。調べてみたらすごいバズってたのになぜか今まで私の視界に入ってこなかった。


私のスタンスですがこの記事は「論外」です。当たり前ですが「社会的責任」という言葉が致命的にまずい。全体の文意どうこうは置いといて、もうこの一点だけでこの記事は危険記事認定だし、おそらくこの記事の主張の根幹はここである以上、他の部分が多少良くても絶対に肯定できない。

というか普通にこの人の無邪気な文章の書きっぷりが怖い。「自分を善良な人間」だと思いんでる人ってここまで傲慢になれるんだなって思う。


言うまでもないが、上のnoteで言っているのはこれと同レベル。

「義務を果たさなければ人権は存在しない」という文言から「義務」を「社会的責任」に置き換えただけだ。というより、まだ「義務を果たさなければ」の方がましだ。上のnoteは、基準が不明確な「社会的責任」という言葉を設定し、それを果たさない限り人権をはく奪しても構わないと言っているわけだ。あんまり言いたくないけど何世紀の権利意識だよと言いたい。この言説に違和感を覚えない人がこれだけ多いということに私は本気で恐怖を覚えている。

普段からこの感覚で論じているのであれば、そりゃ確かに「表現の自由」に対してまともな議論ができるわけないわなって言いたくなる。


そして、すげえ皮肉なことなんだけれど上のnoteに賛同している人の大半は、おそらく「義務を果たさなければ人権は存在しない」って言われたらそっちには反対するのだ。この矛盾を全く理解できてない。
つまり、上のnoteを書いた人も、賛同している人も、自分が何を書いていて、何を読んでいるのかがさっぱり理解できていないということだ。深く考えずに「みんなが賛同しているから正しいのだろう」って言って動いてるだけなのだね。

「全然わからない。俺たちは雰囲気で~」もここまでいくとさすがに笑えない。本気で頭おかしんじゃないのか。


「社会的責任」を持って人の権利を制限する発想の何がまずいのか


オタクを批判したいのなら、面倒くさがらずオタクのみ(少なくともそれなりに妥当性がある範囲)に当てはまる言葉をちゃんと用意するくらいしよう。誰にでもあてはまる言葉を批判してそれをオタクにだけ適用しようとするからアホって言われるんだよ

だよね。こんな雑な形の社会的責任を許容するのであれば極論すれば、「貧乏ゆえに社会的に好ましい行動をしない」「一定以下の納税額の人間は社会的責任を果たしていないので権利をはく奪する」という形も可能だよな。

もっと小さい場に限って言えば「たまたま会社のやり方に合わなくて成果が上げられない人間をよってたかってぼこぼこにリンチする」みたいなパワハラだって肯定されちゃうんだよ。「あいまいに社会的責任」なんて言葉を肯定したときに、自分たちにその矛先が向かないと思ってるってどんだけ楽観的な間抜けなの?


抽象的な思考力がない人が「社会的責任」みたいなふわふわしたワードを使うと、こういう当たり前のおかしさに気づけなくなるのね。

いいですか。

上のnoteは爆撃範囲が広すぎるんです。ネズミ倒すために原爆持ち出すドラえもんなみのバカさを感じる。

あのnoteを読んで「これはいい論考だ」って思ってる人は、広島に原爆を投下しても軍関係者しか死なないと考えてるのか。チキンレースやってるオタクだけを攻撃するために社会的責任を持ち出す=広域爆撃や原爆投下を許可したら、それ以外の人も死ぬんだよ。そんなこともわからないのか。


もっと言おうか?

何のことはなくてこの「社会的責任」って言葉で誰かの行動を制限できると思ってる人、有名人に対して「影響力が大きいんだから配慮してくれ」って言ってたバカをさらに悪化させただけなんですよ。そういうバカの理論をおかしいと思えないのが本当にヤバイ。その部分の記述を持って正しいと思った人は本気で頭が悪い。


あとさあ……世の中にはバカが多いことはわかり切っているはずだよね。ニモ関わらず「社会的責任みたいな抽象的なワード」を使う人たち、最初からわざとバカを先導してモラルパニックを引き起こすことが目的だとしか思えない

上のnoteを肯定してる人、そこまでいって委員会見て喜んだり自分がイソジン買い占めるタイプのバカと同じってことに気付こうね。



とはいっても、今回の語り掛けって、人間心理の弱いところついてるからつい引っかかるのがわからなくもないんだよね。その点では上のnoteに騙されてこのnoteは素晴らしって言っちゃった人はかわいそうな被害者って言えなくもない。

社会的責任という広い言葉を使ってでも叩かれる人を作り出そうとするのは、「自分が迫害される側になりたくない」という恐怖のせいだ

そもそも「社会的責任」という言葉を正確にとらえようとしないから「より外側にある人間を押し出す」形で自分の安全を確保しようとする。

とりあえず自分より外側にある人間がいる限りは自分は安心だと思いたがるんだよね。

この手の思考の人たちは、「オタクって迷惑だよね」と言いながら、オタクがいてくれないと困るので、仮にオタクがいなくなったら次に外側に押し出す人間を探す。


「社会的責任」「自己責任」という言葉を論じる際に絶対に頭に入れておきたい「ペシミストの勇気について」という論考

この話を踏まえずに「社会的責任」という言葉を論じても無駄である。

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/yaziuma/kano/pesimist.html

バム地帯のようた環境では、人は、ペシミストになる機会を最終的に奪われる。(人間が人間でありつづけるためには、周期的にペシミストになる機会が与えられていなければならない)。なぜなら誰かがペシミストになれば、その分だけ他の者が生きのびる機会が増すことになるからである。ここでは「生きる」という意志は、「他人よりもながく生きのこる」という発想しかとらない。バム地帯の強制労働のような条件のもとで、はっきりしたペシミストの立場をとるということは、おどろくほど勇気の要ることである。なまはんかなペシシミズムは人間を崩壊させるだけである。ここでは誰でも、一日だけの希望に、頼り、目をつぶってオプティミストになるほかない。(収容所に特有の陰惨なユーモアは、このようオプティミズムから生れる)。そのなかで鹿野は、終始明確なペシミストとして行動した、ほとんど例外的な存在だといっていい。

後になって知ることのできた一つの例をあげてみる。たとえば、作業現場への行き帰り、囚人はかならず五列に隊伍を組まされ、その前後と左右を自動小銃を水平に構えた警備兵が行進する。行進中、もし一歩でも隊伍を離れる囚人があれば、逃亡とみなしてその場で射殺していい規則になっている。警備兵の目の前で逃亡をこころみるということは、ほとんど考えられないことであるが、実際には、しばしば行進中に囚人が射殺された。しかしそのほとんどは、行進中つまずくか足をすべらせて、列外へよろめいたために起っている。厳寒で氷のように固く凍てついた雪の上を行進するときは、とくに危険が大きい。なかでも、実戦の経験がすくないことにつよい劣等感をもっている十七、八歳の少年兵にうしろにまわられるくらい、囚人にとっていやなものはない。彼らはきっかけさえあれば、ほとんど犬を射つ程度の衝動で発砲する

犠牲者は当然のことながら、左と右の一列から出た。したがって整列のさい、囚人は争って中間の三列へ割りこみ、身近にいる者を外側の列へ押し出そうとする。私たちはそうすることによって、すこしでも弱い者を死に近い位置へ押しやるのである。ここでは加害者と被害者の位置が、みじかい時間のあいだにすさまじく入り乱れる
実際に見た者の話によると、鹿野は、どんなばあいにも進んで外側の列にならんだということである。明確なペシミストであることには勇気が要るというのは、このような態度を指している。それは、ほとんど不毛の行為であるが、彼のペシミズムの奥底には、おそらく加害と被害にたいする根源的な問い直しがあったのであろう。そしてそれは、状況のただなかにあっては、ほとんど人に伝ええない問いである。彼の行為が、周囲の囚人に奇異の感を与えたとしても、けっしてふしぎではない。彼は加害と被害という集団的発想からはっきりと自己を隔絶することに、よって、ペシミストとしての明晰さと精神的自立を獲得したのだと私は考える。

このような状況においては、自分が内側に入ろうとすること自体が加害行為である。

大切なのは、そもそもソ連兵に囲まれて外側を歩かされるような状況がおかしいと思うことなのだ。


だが、オタクを批判するオタクは、「我々は世間様からちょっと目を付けたられたら弾圧されて殺される」ということを大前提に思考する。

だから、なんとしても自分が列の内側に入ろうとするのだ。



内側の三列に入りたくて仕方がない人たち(別に当たり前のことなのでそれを悪いとは言わない)

悪いとは言わないが、自分たちが生き延びたいから理由を探しては他の人間を外に追いやろうとしているおびえた人間たちであるという自覚は持ってもらいたい。

本当に怯えがないなら、いちいち人を外側に追いやろうとする動きはしない。




「当たり前の話をしたいのであれば社会的責任という言葉を使うな」という当たり前のことがわからない人とどうやって会話をすればいいのかわからなくて泣いてしまう。論理が逆なんだよね。

このツイートに1000近いいいねがついてしまうのって教育の完全敗北案件だと思う。

社会的責任っていう言葉がどれほど危険か想像できないから「真意システム」とか言い出すんでしょうが。普段宇崎ちゃんの絵とかで表彰がーとかいって表現の端々にかみついておいて自分たちが批判されたときはぶんみゃくをよめとかいうのアホでしょ。

自分以外のオタクを迫害するそぶりを見せなければ安心しえオタクを名乗れないという状況がまずおかしいと思わないのが凄いな。この状態でオタクは調子乗ってるって思うんだ。普通に考えて「自分をそこまで不安な気持ちにさせる構造」に違和感を感じないの?って考えたらちょっと洗脳具合がヤバイ

この手の人たちは自分が「社会的責任を問われる立場」になる可能性を全く考慮してないんだろうなと思う。心の底から自分は「全方位から見て」善良だと信じていられるわけだ。素直にその鈍感力を見習いたい。

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