『悪は存在しない』と対称性の論理――下書きめいた小論

濱口竜介の監督最新作『悪は存在しない』(2023)は、すでにその特殊な製作の経緯が明かされているように、長編の前作『ドライブ・マイ・カー』(2021)で音楽を担当した石橋英子のソロライブパフォーマンスのための映像(こちらは『GIFT』というもっと尺の短いサイレント映像となった)が元になって、またそれと並行して制作された。そして、劇映画としての本作の物語は、信州の奥深い集落「水挽町」で暮らす父娘を主人公に、その集落に東京の芸能事務所が「グランピング」(ホテル施設を備えるキャンプ場)を開発する計画を持ち込もうとして、土地の住民たちと紛糾する顛末を描いている。

 筆者はこれまでにも、濱口の作品群について著作や批評でたびたび論じてきた。それは、彼の映画が、デジタル化やポストヒューマン化を経た21世紀の現代映画――筆者の言葉でいう「ポストシネマ」の主だった特徴を、もっとも顕著に示すものだからである。そして、その特徴は、今回の『悪は存在しない』にもはっきりと認められる。この小稿では、その本質的要素を、現代の人類学の用語を借りて「対称性symmetry」という言葉で切り出してみたいと思う。たとえば、思想家の中沢新一は、この「対称性の論理」について、以下のように説明している。

科学は二項論理を道具に使って、アリストテレス型の論理を働かせます。それにたいして、神話の思考は同じ二項論理を基礎的な道具として用いながら、アリストテレス型にはおさまらない、ときにはまったくそれに違反するようなタイプの、異なる論理を働かせることによって、神話的宇宙をつくりあげようとしているのです。[…]

 たとえば人間と山羊は、動物である点では同じですが、「種」という点について言えばちがうカテゴリーに属していて、私たちの常識では人間と山羊を混同することはできません。[…]山羊が人間の世界の中に対等な立場の存在として、入り込んできて生活することはありません。[…]

 現実の行動が要求するこの「非対称性」を、神話はくつがえそうとします。神話にはよく人間と動物との区別がはっきりしない、不思議な「半-人間」や「半-動物」や「人間-動物」が登場してきます。[…]

つまり、ここではいわば「論理的」に、人間の狩人と山羊は同質のもの(=対称的)として、おたがいのあいだに「つながり」を見出しているわけです。

つまり、対称性とは、生と死や部分と全体、あるいは人間と動物、動物と植物といった「表面的には違って見えるもののあいだに、共通性や同質性をみいだして、それらをひとつのものとしてとらえようとする」論理のことだ。アリストテレスの矛盾律をはじめ、人間の文明的思考のほとんどは、これとは逆の、物事を異なるクラスに区分し差異づけることで発展してきた。それゆえ、中沢によれば、今日の私たちの世界は「圧倒的な非対称」の論理に覆われている。ところが、神話の世界では「いわば「論理的」に、人間の狩人と山羊は同質のもの(=対称的)として、おたがいのあいだに「つながり」をみいだしている」。こうした神話的な対称性の論理は、筆者の見立てでは濱口作品をはじめとするポストシネマのいたるところにも見出せるものである。

 実際に、これまでの濱口作品でも、文字通りシンメトリカルなイメージをその画面のあちこちに指摘することは可能だろう。中編『不気味なものの肌に触れる』(2013)に登場する染谷将太と石田法嗣が互いの身体を擦り合わせるように動く奇妙なダンス、『寝ても覚めても』(2018)で東出昌大が一人二役で演じた亮平と麦などがすぐに思い出されるし、酒井耕との共同監督によって製作されたドキュメンタリー『なみのおと』(2011)、『なみのこえ 気仙沼』『なみのこえ 新地町』(2013)、『うたうひと』(2013)の「東北記録映画三部作」における小津安二郎を思わせる、向き合う二人の人物の正面からの切り返しショットもそうだろう。

 そうした、何らかの対極的な二項が決定不能な混淆性を抱えたまま拮抗しあう対称性は、彼の作品作りの根幹にも表れている。それはたとえば「東北記録映画三部作」に見られるフィクションとドキュメンタリーの関係であったり、実際のワークショップが元となって制作され、しかも作中にそのワークショップのシーンが使われている『ハッピーアワー』(2015)や、それと同様の習作的要素やワークショップ的要素がモティーフ並びに形式になっている『不気味なものの肌に触れる』や『ドライブ・マイ・カー』のように、完成作品と試作品、インディペンデントとメジャーといった関係、あるいは『ドライブ・マイ・カー』や『親密さ』(2011)のように、映画と演劇、つまり表象とライブパフォーマンスの対比……などなどによって繰り返し試みられてきた。濱口の映画の真の現代性は、以上の対称性の強固な一貫性にこそ存在する。

 そして翻って、この『悪は存在しない』もまた、以上の対称性の論理を紛れもなくその本質として形作られた映画だと言える。もちろん、それは主題的な面での人間と動物(鹿)、都会と自然といった要素、また形式的な面での映像と音楽という要素にわかりやすく見られることはいうまでもない。もともとは濱口作品のスタッフで、今回も当初は制作部でドライバーを担当していた人物を俳優として起用したという経緯も、過去の――筆者が『明るい映画、暗い映画』(blueprint)で「ワークショップ映画」と呼んで論じた――濱口作品の独特の制作経緯と共通するものがある。さらに、その対称性は、たとえばまず、この106分の全編を両端から包むオープニングとエンディングの印象深い林の中のシーンからしても明らかだろう。本作のオープニングは、ほぼ垂直の俯瞰に据えられたカメラが地上からまっすぐに天に伸びる無数の霧深い木立の中をゆっくり歩いていくような、画面上方から下方への移動ショットから始まる。そして、物語の終盤では、この移動ショットとよく似た、しかも逆向きに移動するショットが反復して登場する。

 以上の点で、『悪は存在しない』もさしあたり、明らかに「対称性の映画」だとみなすことができる。

とはいえ、『悪は存在しない』が示す対称性のイメージの素晴らしさは、それが単なる混淆状態や同質性だけではなく、はっきりとした運動性を備えているところにある。

この映画のいたるところで見られる、対抗的な、場合によっては複数に分岐する強度の線が互いに力を及ぼしあい、ミクロな競合をそこここで派生させながら、作品世界の中で、さまざまな変化の彩りを動的に与えていく様子が、何にも増して映画的であり、またきわめてポストシネマ的でもある。

筆者は前節で、濱口映画における対称性の力学を人類学の知見を参照することで簡単に示したが、引き続き、それに倣って『悪は存在しない』の世界を見渡せば、その運動性の格好のイメージとして、主人公である安村巧(大美賀均)が行う薪割りのシーンが挙げられる。「便利屋」を名乗って町の事情に精通する巧は、娘の花(西川玲)とともに、代々、水挽町で自然とともに暮らしている。町にグランピング場を建設する計画を持ち込んだ東京の芸能事務所に勤める高橋(小坂竜士)と薫(渋谷采郁)が、最初の住民説明会で生半可な知識から町民からの猛反発に遭い、苦肉の策として、そんな巧にアドバイザーとして協力を仰ごうとする。彼らが林の中の巧の自宅まで挨拶に顔を出すと、巧は大量の薪が積み上げられた庭先で、一本ずつ斧を使って器用に薪を叩き割っている。巧の操る斧は、垂直に振り下ろされると、きれいに薪を真っ二つに割る。その姿を見ていた高橋が、思わずふと声が出たという感じで、自分もやってみていいかとおもむろに尋ねる。巧から無言で斧と手袋を渡された高橋は、力を込めて斧を振り下ろすが、薪は芯を外したように、なかなかうまく割れない。傍で見ていた巧が、ぶっきらぼうにアドバイスする。それを受けて、再び振られた斧は、その勢いとともに、ようやく見事に薪を二つに割る。

 ところで、『悪は存在しない』の、この一連の薪割りのシーンは、イギリスの社会人類学者ティム・インゴルドが主著『メイキング』で、モノがブリコラージュ的にメイキング(制作)されるプロセス――すなわち、モノに手を加え何かに加工する人間の側と、加工されるモノの側が互いに対称性を構成しながら「かたち」が出来上がってくる仕組みを示す際に、具体例として挙げる「木こり」のエピソードを思わせる。

「熟達した木こりは、斧の刃が木目に入るように、斧を上から下に振りおろす。そうすれば、かつて樹木が生きた木であった頃に生長した過去の歴史の方向に、すでに樹木の内側に組みこまれている方向に従うことができるからだ。斧の刃が木目を切り裂き、樹木によって進むべき方向を見いだすとき、ドゥルーズとガタリがいうように「木の繊維の波状の変化や歪み」によって、その斧は導かれる。[…]ふたたびドゥルーズとガタリの言葉を借りれば、握斧や斧を素材に「従わせる」のであり、それらが「導く方向に従う」という問題なのである」。

高橋の振るう斧が、当初、薪をうまく割れないのは、それが、「木の繊維の波状の変化や歪み」といった素材(木)の性質を考慮せず、薪を完全に主体的に統御しようと主体側が振る舞っているからだ。それは、「圧倒的な非対称」に基づいている。そうではなく、熟練の技は、自らの企図と素材の性質を柔軟に、いわばシンメトリカルに照応させ、うまく「素材に「従わせる」」ことで発揮されるものなのだ。そして、ここで濱口はその対称性を、斧を振り下ろすという身振り=運動性の軌跡そのものとして視覚化している。

 さらに、こうした運動となった対称性の力学は、巧の周囲で、さらに流麗なひとつのイメージとなって、本作を鮮やかに輪郭づけることになる。

おそらくひとによっては、それは近年の濱口映画に頻出するようになった、「自動車」がもたらす運動性だと納得するだろう。なるほど、かつて『親密さ』のラストの、あの感動的な山手線の車両のシーンのように、ごく初期の作品群であれば、「電車」が作品世界の中で特権的なイメージを構成していた濱口の映画は、その後、『ハッピーアワー』の冒頭に登場したヒロインたちの乗るケーブルカーあたりを境にして徐々に変容し、近年では作中人物たちが乗車するその指標的な乗り物を「自動車」へと転換させていった。そこでの、『ドライブ・マイ・カー』の西島秀俊や岡田将生はもちろん、『偶然と想像』(2021)の第1話「魔法(よりもっと不確か)」における古川琴音と玄理など、後部座席にそれぞれ正面を向いて並んで座り会話する対照的な二人の人物のシーンは、確かに見逃せない運動性を画面に呼び込んでいる。それは、『悪は存在しない』でも引き続き、東京から再び長野に向かう高速道路での運転席の高橋と助手席の薫の車内の会話劇として繰り返されている。

もちろん、会話劇の名手たる濱口の作品にとって、近作をめぐるこの自動車の会話シーンも見逃せないのだが、『悪は存在しない』では、ポストシネマの観点からも、より顕著な、運動性のイメージが物語全編にわたって広がっている。いうまでもなく、巧をはじめとする水挽町の人々がその生活のよりどころとする、流れる「水」のイメージがそれである。映画のオープニング、巧やうどん屋を営む和夫(三浦博之)が白い水汲みのタンクを携えて沢に降りる。澄んだ陽光を受けてキラキラと輝く水面を湛えた湧水の川から水を汲む。その後も、行方不明になった花を探す住民たちが走る林の中に流れる川をはじめ、『悪は存在しない』には、水、それも川のような流れる流体のイメージが横溢している。

この水の流れのイメージについて、ここでは、やや唐突に思われるだろうが、フランスの映画批評家アンドレ・バザンの、以下の名高い記述と重ねて捉えてみたい。

一九三九年、トーキー映画は地理学者たちが河川の「理想河床変化」と呼ぶ状態にまで達していた。これは浸食作用が十分に進んだ結果、河床が数学的にいって理想的な曲線を描き出すことを指す。理想河床に達した河川は、水源から河口までスムーズに流れ、もはや河床を削ることがない。しかしそこに何か地質学的な変動が生じて準平原を持ち上げたり、水源の高さに変動が生じたりしたなら、水流はふたたび変化を及ぼし始め、水底の下まで深くしみ込み、土を侵し、うがつ。

論文「映画言語の進化」においてバザンは、サイレントからトーキーへ、あるいは古典的映画から彼が評価する戦後映画へといたる映画史の進化のプロセスを、河川の流れによる河床の曲線の変化になぞらえた。

河川の水流は、絶えずその流れの力で河床に「浸食作用」を及ぼし、何らかの原因で地質学的な変動が生じ、河床の高さに変化が起これば、水流は永遠に、「水底の下まで深くしみ込み、土を侵し、うがつ」。こうした「理想河床変化」は、もちろん『悪は存在しない』の舞台となった信州の架空の町である水挽町の河川にも起こっているだろう。そして、明らかなように、このバザンが記述する理想河床変化――水流の浸食作用と、侵食される河床が互いに力を及ぼしあいながら準-均衡状態を保ちつつ、河床の「かたち」が可塑的に生成していく様態――は、先にインゴルドが示した、斧と樹木が織りなす対称的なメイキングの見取り図に限りなく等しい。

さらに付け加えれば、その動的な対称性のイメージは、これもあの素晴らしく不穏な、作中の子どもたちによる「だるまさんがころんだ」のシーンに変奏される。シーンの当初、横に横にゆっくり移動するカメラの前で、駐車場と思しき場所に点在する子どもたちがまるで石のように凝固しており、一瞬、戸惑う観客の目の前で突如、動き出すあのシーンもまた、静と動の一種の対称性のイメージを形作っている。

『悪は存在しない』は、このような対称性の論理に突き動かされた映画である。そして、その対称性の論理が、そのまま現代映画=ポストシネマの論理と直結しており、それを固有の、具体的なイメージとして視覚化している点にこそ、この映画を傑作にしている条件がある。もちろん、その論点は、これも濱口映画の主要な特徴である「リズム」の問題系にも連なっていくが、それらを含めて体系的に論じるには、このような草稿めいた原稿ではなく、改めて綿密な構想に基づいた別稿を期すべきだろう。

引用・参考文献

中沢新一『カイエ・ソバージュ「完全版」』講談社選書メチエ、2023年

ティム・インゴルド『メイキング――人類学・考古学・芸術・建築』金子遊・水野友美子・小林耕二訳、左右社、2017年

アンドレ・バザン『映画とは何か』上巻、岩波文庫、野崎歓・大原宣久・谷本道昭訳、2015年




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