3) ボヘミアン第一世代と第二世代

ここで 「カフェ・フランス」に登場するボヘミアンと、パンの会(一九○九~一九一一)のボヘミアンを対比して考察してみなければなりません。アーノルド・ハウザーはロマン主義、自然主義、印象主義の各時代のボヘミアンを区別するべきだと主張しています。

元来ボヘミアンというものは市民的生活様式に反対する一つの示威運動にほかならなかった。この運動の担い手は若い芸術家や学生達から成っていた。彼らの大部分は金持ちの息子であり、現在の社会にたいする彼らの反対も、大抵は単に青年らしい無鉄砲と反抗精神であるにすぎなかった。テオフィル・ゴーティエ、ジェラール・ド・ネルヴァル、アルセーヌ・ウサイ、ネストル・ロクプラン、その他どんな名前をあげようと、彼らはみな、市民の父親達と別の形で生活せざるをえなかったがゆえにではなくて、別の形で生活しようと欲したがゆえに、市民社会から絶縁したのである。彼らは全くのロマン主義者であり、美術や文学を何かある常軌を逸した独創的なものと考えたがゆえに、生活様式も常軌を逸した独創的なものにしたかったまでの話である。彼らは、ひとが遠い異国へ旅するように、社会からはじき出され蔑視されている者たちの世界に遠足を試みた。彼らはのちのボヘミアンたちの悲惨を全く知らず、帰ろうと思えばいつ何時でも市民社会へ戻って行かれたのである。
(高橋義孝訳、アーノルド・ハウザー『芸術と社会の文化史』三、平凡社、一九六八、一○四一頁)

ハウザーの言う三段階に正確に対応させることはできないとしても、日本の場合、パンの会の青年達を「ボヘミアン第一世代」と名付けてもよいでしょう。彼等の大部分は富裕階級の子弟であり、苦労して金を稼がなくとも芸術に没頭することのできる身分でした。後に没落して貧困にあえぐことにはなるものの、白秋は九州でも有数の造り酒屋のぼんぼんであり、杢太郎も旧家の出で、東京帝国大学医学部に通う学生でしたから、エリート医師としての将来は保証されていました。高村光太郎は高名な彫刻家であり東京美術学校教授である高村光雲の長男です。まだ二十代の若造であった彼等は、父親とは違う生き方を望んで、しばしの間「遠足」をしていたのであり、望みさえすればいつでも上流の生活に戻るチャンスが開かれていました。
朝鮮文学史においては雑誌『創造』(朝鮮初の文芸同人誌、一九一九年創刊)の同人をボヘミアン第一世代である、とひとまず規定してよいでしょう。『創造』同人は裕福な家をバックに持つ、地方の有力者の子弟達でした。(金東仁、『文壇回顧』、同書、三八二頁) また『白潮』(一九二二年創刊)派の同人達も裕福な家の子弟であり、この類型に近いと言えるでしょう。
これに対し、世代差こそないものの、『廃墟』(一九二○年創刊)同人は朝鮮文学の第二世代ボヘミアンであると言えます。

つぎの世代のボヘミアン、ビヤ・ホールを根城にする戦闘的自然主義の世代、中でもシャンフルリ、クールベ、ナダール、ミュルジェたちは本当のボヘミアンだった。彼らは、その生活が全く不安定な人々から成る芸術プロレタリアであった。彼らの生活は市民社会の枠外にあり、彼らの市民階級に対する戦いは決して調子に乗った遊戯などではなく、切実な必然事であった。彼らの非市民的な生活方式は、彼らのいかがわしい生活にふさわしい形態でこそあれ、もはや単なる一時の仮装などどいうものではなかった。 
(アーノルド・ハウザー、 前掲書、 一○四一~一○四二)。

『廃墟』同人のほとんどは生活基盤を持っていなかったし、結婚していてもひとりで下宿して飲んだくれたりしていました。そして「カフェ・フランス」の話者の状況は、もちろん『廃墟』のパターンに近いものです。日本に来ていた朝鮮人留学生の多くは、芝溶のように経済的に豊かではないプロレタリアートボヘミアンでした。金持ちの子弟も、植民地出身である以上、抑圧を感じる部分はあったでしょう。故郷に妻子を残してきた学生も多かったし、彼等は家長としての重い責任を負っていました。そんな現実に一時的に目をつぶり、芸術家のようにふるまってみるのが彼等のボヘミアン生活だったのです。
それで、「僕、子爵の息子でも何でもない。」という一節は、芝溶がひとつ上の世代であるパンの会や白樺派、あるいは若き日の金東仁や朱耀翰のように裕福な青年と自分の立場を比べながら嘆いているように思えるのです。「カフェ・フランス」の話者は国を失い家もない哀れな存在です。インテリに属してはいるものの、社会的に高い地位が保証されているわけではない貧しい芸術志望の青年、芸術プロレタリアートに過ぎません。それなのに「子爵の息子」に象徴される上流階級の子弟達の華麗な放蕩をまねるとは。母国語まで失われようとしているのに日本で西洋文化を追いかけているなんて。彼等にとってカフェはしばし現実に目をつぶる場所でしかなく、一歩外に出れば暗い現実が待っていました。
尊敬する詩人白秋が主催する雑誌『近代風景』誌上で、芝溶は注目を集める新人のひとりになっていましたが、彼はいつまでも日本にいるわけにはいきませんでした。徽文高普が彼に留学費用を出してくれていたため、芝溶は大学卒業と同時に教師として母校に赴任するべく定められていました。さらに、故郷に帰れば家長としての責任が待っています。彼が文学に熱中できる時間は、当初から期限つきでした。だから「カフェ・フランス」の話者が高級そうな大理石のテーブルに疲れた頬をのせたとき、その冷たい即物的な感触が冷酷な現実を思い起こさせ、ぎくっとするのです。「カフェ・フランス」の人物のボヘミアン生活は、第一世代ボヘミアンに憧れて模倣する、悲しくも滑稽なカリカチュアでしかあり得ません。
ツルゲーネフの「手の白い人」が農民・労動者の側に立とうとしても、彼等との乖離を埋められない貴族インテリゲンチャであるとするなら、「カフェ・フランス」の話者は貴族でもないのに貴族の悲しみのポーズを取る植民地の青年です。彼はそんな自分の姿が「子爵の息子」達の姿を縮小した、カリカチュアでしかないということをよく知っています。「カフェ・フランス」が甘い夢と苦い現実の中で身動きのとれない植民地のインテリ青年の感情をなまなましく伝えるのに成功しているのは、詩人がこうした冷静な視線を失っていないからでしょう。