2) 「パンの会」の異国情調

パンの会とは、明治末期に若い芸術家達が岩村透のエッセイで描写されていたパリのカフェをまねて、セーヌ川に見立てた隅田川近辺の西洋料理店やカフェを舞台に繰り広げた、反自然主義的かつ芸術至上主義的な芸術運動です。

例へば、パリには印象画派を誕生せしめたというカフェ・ゲルボアなどがあり、其処では多くの新精神の若い画家に交つてボードレールやヴェルレーヌ等の象徴派詩人が常連であって、さうした雰囲気から新らしい芸術運動が起こつたといふ事実は、東京をして東洋のパリたらしめんことを夢見つつあつた彼等芸術の使徒を以て任ずる青年にとつて、羨望そのものでさへあつた。明治四十一年の晩秋の一日、『方寸』発行所で、彼等が企てた新芸術運動の端緒は、さうした「東京をパリとなす」夢からはじまつたと云つてよい。
(野田宇太郎、『日本耽美派文学の誕生』、河出書房新社、一九七五、一○三~一○四頁)

この会は、当初、美術雑誌『方寸』の西洋画家達と北原白秋、木下杢太郎が結成したグループだったのが、『白樺』(学習院大学系)、『三田文学』(慶応大学系)、『新思潮』(東京大学系)など、自然主義文学の牙城である『早稲田文学』を快く思わない若い文学者達が大挙参加し、自由劇場の演劇関係者も加わりました。その大部分は二十代半ばの、若く気概にあふれたボヘミアンです。初めはまだ東京にカフェがなかったため下町の西洋料理店で開かれましたが、芸術談をかわすパン(牧神)の集まりは、すぐにビーナスとバッカスの祝祭に変貌し、二年後には自然消滅してしまいました。この集会自体が何かを生み出したというわけではないのですが、参加者達が後に各分野で重要な役割を果たしたため、日本文学史上特筆される運動となりました。
パンの会の特徴をひとことで言えば「異国情調」でしょう。ここで「異国」とはヨーロッパ、特に十九世紀のパリであり、一方では失われつつある江戸文化と、鎖国時代の南蛮文化またはキリシタン文化を意味しています。西洋の近代に身を置こうとしていた彼等にとって江戸は、すでに異国でした。「彼等の江戸情調は、日本人ではなく、むしろ異国人が珍奇な眼で眺める異国としての古い東京であつた。西洋人の碧眼を透して再び日本へ還つて来た江戸であつた。つまり江戸情調も彼等にとつては懐古趣味ではなくて異国情調にすぎなかつたのである。」(野田宇太郎、前掲書、十三頁)
南蛮文化に対する「異国情調」は、『明星』に参加していた新詩社の青年詩人達が明治四○年夏に九州に旅行したことをきっかけに広まりました。彼等は九州の西南部地方にキリシタンの遺跡を訪ねたのですが、それを契機に杢太郎と白秋は「南蛮文学」と呼ばれる作品を発表し始めます。すなわち、白秋の第一詩集『邪宗門』、杢太郎の詩集『食後の唄』に収録された作品と戯曲「南蛮寺門前」などの誕生です。「邪宗門」はキリシタンを意味すると同時に社会の規範をはずれた芸術家達の芸術至上主義を指しているのですが、河村政敏は白秋の『邪宗門』序文にある「我ら近代邪宗門の徒」という表現について、通俗的な倫理に反逆して悪の美を憧憬する世紀末の耽美派詩人の心情を、禁制下においても異端邪宗の幻法を絶えず追求したキリシタンになぞらえて表現したものであるとの注釈を付しています。(『日本近代文学大系二八 北原白秋集』、 角川書店、 一九七○、五五頁)。白秋は、友人・木下杢太郎の『食後の唄』に寄せて、「彼は種々の舶来品――それは珍奇なる多種多様のエチケツト、南蛮の異聞、ギヤマン、香料、異酒、 奇鳥、更紗の類――を吾徒の間に齎した。」(「詩集『食後の歌』序」、 『日本近代文学大系五九 近代詩歌論集』、角川書店、一九七三)と書きましたが、この言葉は白秋自身の『邪宗門』にもそのまま当てはまるものです。
杢太郎は九州旅行の「二三年前ゲエテのイタリア紀行を読み、それに心酔してゐましたから、さういふ見方で九州を見てやらうといふ下心」(木下杢太郎、「明治末年の南蛮文学」、野田宇太郎前掲書より再引用、二四頁)を持っていました。 野田は、「九州は、いはば若きゲーテのイタリアであつた。長崎や平戸はローマであり、フィレンツェでありヴェネチアでもあつた。そして天草はシシリアでもあつた」と言っています。野田、前掲書、八二。 明治末期の芸術青年達は既に西洋人の眼で自国の歴史をながめていました。そして「カフェ・フランス」の話者は西洋人の眼を持った日本人の感性を学んだ朝鮮青年だったのです。