(2)河原町カトリック教会

 正式にプロテスタント信者になった数ヵ月後、芝溶はなぜかカトリック教会を訪れます。 一九三三年に朝鮮で発表された『カトリック青年』創刊号掲載の「素描1」は、その時の様子を描写しているようです。ここでカトリック信者である女友達「ミスR」に誘われて教会にやってきた主人公は、生まれて初めて見るフランス人神父と教会の威容に圧倒され、かつ緊張しています。

ミスRはにっこりと笑みを浮かべた。僕の早朝の恥じらいは、軽く上気した。
「神父様、こちらは私と同じ国から来た方です」
「信者ですか?」
「いいえ…まだ」
言葉を知らない捕虜のように、僕は胸のボタンをいじっていた。
(「素描1」)

歴史的な事実に照らしてみると、この教会は同志社大学とそれほど遠くない所にある河原町教会(別名:聖フランシスコ・ザビエル天主堂)であり、フランス人神父は一九二二年から三一年までこの教会の主任司祭を務めたジュッツ神父(Y. B. Duthu、一八六五~一九三二)です。当時の河原町教会にはジュッツ神父のほか若いジュピア神父、日本人伝道士久野信之助がいました。『河原町カトリック教会――宣教百年の歩み』(注:宣教百年史編集委員会編、河原町カトリック教会発行、一九八二)では「素描1」において「みごとに左右に分かれた栗色の鬚[ひげ]」と描写されたとおりのあごひげを垂らした神父の写真を見ることができます。
 私は二〇〇〇年七月三一日、河原町教会を訪れて芝溶が洗礼を受けた時の記録を確認しました(これに関してはカトリック京都司教区本部事務局長(当時)森田直樹神父の協力を得ました。)「No.2894」と番号のついた洗礼の記録は、ラテン語と、ジュッツ神父が書いたらしい下手な漢字で記されているのですが、それによれば芝溶は一九二八年七月二二日、聖フランシスコ・ザビエル天主堂(河原町教会)において、ヨゼフ久野信之助を代父とし、ジュッツ神父の手によって洗礼を施されています。名前は[Tei Shio、鄭芝溶」、出生地は「Corea 忠北沃川邑内下桂里」、両親の名前として鄭泰国、美河、洗礼名としてFranciscus(フランシスクス、フランシスコのラテン語形)が記されています。芝溶はその洗礼名を中国式に「方済各」と表記し、パンジゴと発音していました。
 「素描1」には「その日の僕は、金ボタン五つの制服を着たハムレットであった」「言葉を知らない捕虜のように」「次の日曜日、朝のミサを終えて鳩のようにさざめいている信者達の中に、僕もいた。飼いならされていない孤独な山鳩の羽は、なじめないでいた」という表現が出てきますが、これはプロテスタント信者であるにも関わらずカトリックに関心を抱き始めた芝溶の心境だったのでしょう。小説仕立てになってはいるものの、この文の多くの部分は実際の状況と一致しているため、「ミスR」のモデルになった女性が芝溶をカトリック教会に連れて行ったのだろうと想像してもよいでしょう。彼女は芝溶と同時期に京都にいた朝鮮人女性であろうと思われますが、篤実なカトリック教徒なので金末峰とは別の人物です。

 大学時代の成績表によると、芝溶は同志社大学を一九二九年六月三〇日に卒業しています。なぜ六月末に卒業したのでしょう。鄭蘆風は、「昨春に同志社大学英文科を卒業していなければならないはずの芝溶君が、実はキリスト教の中でも旧教であるカトリックに帰依して、ほとんど変人に近い宗教信者に」なり、芝溶の信仰は「普通とは段違いに、実に熱狂的で、学校の卒業試験などには無関心であるばかりでなく、日曜には学生達の集まる教会に来ては新教が悪い、と熱烈な糾弾原稿をもってカトリックを擁護するため論戦、講演、テーブルをこぶしでドンドンたたくことも珍しくはない」らしいという噂を耳にしたそうです。(鄭蘆風、前掲文)。つまり、当時京都の朝鮮人留学生達の間に、鄭芝溶は宗教活動に熱中するあまり卒業が遅れたという噂が立っていたのです。
朝鮮の新聞・中外日報には、一九二八年六月二五日から八月八日まで三八回にわたって「文壇諸家の見解」という記事が連載されており、四四名の文学者が質問に対する回答を寄稿しています。質問は「一、当面の重大課題、二、創作の題材問題、三、大衆獲得の問題、四、推薦書籍」というもので、これに対し芝溶は連載の十番目(七月四日)に、きわめて簡単な回答を寄せています。全文は次のとおりです。

文壇、作家、作品に関する問題は特に考えていることもないので、何とも言えません/最近読んでいる本、五冊――The Holy Bible/The Imitation of Christ/Dawinism and Catholic thought/『カトリック思想史』/『公教要理』。

この短い文から、洗礼を受ける直前の時期、芝溶が英文学にも文壇の動向にもあまり興味を持たず、ひたすらカトリックの教理を学ぶのに熱中していたことが分かります。

 一九二七年十二月にプロテスタントの洗礼を受けた芝溶は、一九二八年七月にはカトリックに改宗しています。ひどく性急な転身の理由を、いま我々は芝溶に問うことはできません。しかし考えられる理由の一つは、堀牧師の教えが理論的に弱かったという点でしょう。先に述べたように堀牧師は人を感動させる力を持っていましたが、体系的、理論的な説教はできませんでした。それで一九二八年頃には同志社のリバイバルもいくぶん衰え、堀牧師に対する批判が再び盛り返しはじめました。その際、誰かにカトリックの優越性を論理的に説かれて心が揺らいだということが考えられます。また、一九二八年七月に芝溶が一生懸命読んでいた『カトリック思想史』にも、カトリックがプロテスタントよりも普遍的であり、正当な宗教であると説明した部分があります。
さらに、芝溶が幼い頃の出来事を思い起こしてみましょう。芝溶の父・泰国は若い時に満州やロシアに行き、カトリック教徒になって帰ってきたと伝えられています。そして父が信仰を捨てたのは洪水で家産を失った時で、それから一家の暮らしは不幸なものとなりました。逆に言えば父がカトリック信者であった頃、芝溶は裕福な家庭の大切なひとり息子として父親に可愛がられて幸福に暮らしていたのです。父は漢文とともに聖書を教えてくれたり、お祈りの仕方や讃美歌も幼い息子に教えてくれたかも知れません。つまり芝溶の意識の奥底で、カトリックはその時の幸福な記憶と結びついていたのです。そうであれば、カトリック教会は見慣れぬ場所ではあったものの、芝溶は潜在意識の中で、ある懐かしさを覚え心ひかれたのではなかったでしょうか。無論、これは想像に過ぎません。
 信者となった芝溶が帰郷した際に、カトリックの信仰を取り戻すよう父を説得したところ、父は息子が他郷でカトリックになって戻ってきたことに驚き、数奇な運命を感じて再びカトリックを信じるようになったそうです。この時、妾には暇を出し、芝溶の生母が帰ってきました。もとのような金持ちにはなれなくとも家庭はひとまず落ち着いたので、芝溶にとってカトリックは、常に家庭の平安と結びつくものであったわけです。
ここで、この時期日本に滞在していた朝鮮人カトリック教徒の活動について記しておきましょう。朝鮮で発行されたカトリック機関紙『星[ピョル]』は一九二七年四月に創刊され、『カトリック青年』誌創刊を機に終刊した月刊新聞で、発行所は京城教区天主教青年聨合会、発行人は朴準鎬、印刷はフランス人ポール・ビルモ(M. P. Paul Villemot)となっています。この新聞から日本在留朝鮮人カトリック教徒の動向を抜粋すると、一九二七年十一月十日付に東京で朝鮮教友会が創立されたという記事があり、一九二八年三月十日付には在東京朝鮮公教信友会が在日本朝鮮公教信友会に改編されたとあって、同年十二月十日付新聞には信友会京都支部の創立が、記念写真とともに報告されています。全文を引用します(原文朝鮮語)。

去る十一月に京都市河原町聖堂内で在日本朝鮮公教信友会京都支部創立総会が開催され、規則通過と役員選出があったが、当日出席したのは三〇人あまりで、それ以外にも多数が立ち会った模様である。/会長 本堂神父/総務 金奇漢/書記 鄭芝溶/会計兼通信部 崔秀福/伝教部 金仁石 任慶善 金玉培/幹事 李相玉 朴世敬。

ほとんど同内容の記事が日本のカトリック新聞一九二九年一月一日付にも掲載されています。

信友会京都支部 創立総会――昨年十一月十日京都市河原町天主堂において在日本朝鮮公教信友会京都支部が開催され、出席会員三十数名の盛況を見せ、和気藹々とした雰囲気のなか規則通過及び次のように役員選挙が行われた。/支部会長 ジュッツ神父/総務 金奇漢/庶務部長 鄭芝溶/会計部長 崔李福/伝教部員 金仁石 任慶善 金玉培/幹事 李相玉 朴世敬。

鄭芝溶が書記ではなく庶務部長になっている点、崔秀福が崔李福と記されている点など若干の違いはありますが、これらの記述によって一九二八年十一月当時、芝溶は役員として選出されるほど篤実な信者として認められていたことが分かります。そして芝溶よりも先にカトリックの信仰を持っていた「素描1」の「ミスR」のモデルも、おそらくこの役員のうちの一人でしょう。

 ところで、鄭芝溶と同年生まれの李泰圭[イ・テギュ](一九〇二~九二)という人が、一九二四年から三一年まで京都帝国大学に留学しています。彼は朝鮮人初の理学博士になり、京都帝大で教鞭を取ったことで話題になりました。解放後にはソウル大学初代文理科大学長に就任し、化学および物理学の分野では世界的に認められた学者だそうです。しかし芝溶と出会った時は、まだ二人とも学生でした。
 李博士の伝記『ある科学者の話』には次のような記述があります。

(…)カトリック信者になったのは、詩人である鄭芝溶の勧めによるものであった。(…)この時分、李泰圭は朝鮮人留学生の集まりを通じて芝溶と知り合い、植民地の民としての精神的葛藤を信仰生活を通して克服しようとしたので、容易にカトリックに入ることができたのだ。
(金ヨンドク編、『ある科学者の話』、東亜、一九九〇、五二頁)

鄭芝溶は李博士がカトリックに入門して洗礼を受ける際の代父だった(…)
      (同書、六三頁)

しかも、芝溶は李泰圭に花嫁まで世話したそうです。帰国して母校の英語教師になっていた芝溶は、一九三二年、京都で研究に没頭していた友に手紙を送り、いい人がいるから結婚しろと勧めました。花嫁候補の朴仁根[パク・イングン]女史も京都留学の経験を持つ篤実なカトリック教徒で、芝溶夫人とも親しかったといいます。李泰圭は「代父」鄭芝溶を信頼していたので彼の言葉に従って結婚することにしたのですが、芝溶は友のためにその両親を訪ねて結婚の許しを得てやり、準備を整えてやったそうです。結果的にこの夫妻は、博士が晩年、「生まれ変わっても同じ人と結婚したい」と語るほどむつまじく暮らしました。