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侍烏帽子と肩衣 佐多芳彦

「成人男性は露頂ろちょう(烏帽子をかぶらない頭部)を恥とする」という朝廷貴族がさだめたしきたりが、武士が活躍する時代を経て、頭頂部露出で構わないとなり、衣服も直垂ひたたれから、もともと略装であった肩衣かたぎぬになるという武士の正装の変遷を「下剋上」というキーワードで解き明かします。近年でいえば、ビジネスの場でもノータイで構わなくなった等と同じようなことでしょうか。なお、『武士の衣服から歴史を読む』の著者、佐多芳彦先生はNHK大河ドラマ「光る君へ」の風俗考証も務められています。

 ここ十年、十五年、武士の衣服と服制に強く魅かれ取り組んできた。やっとその成果をささやかながら上梓できた。衣服を中心にしたので冠帽具については触れることができず、現在、論文などのかたちで発表をはじめた(「烏帽子の起源と展開」(『立正大学文学部論叢』、一四六、二〇二三))。小稿もそうした一連の流れでテーマを選ばせていただいた。

 武士の姿を目にするとき、一番初めに目が行くのが頭部だ。冠帽具の有無や髷の結い方(髪型)に時代性があらわれやすい。とりわけ、中世末期の武士の姿における髪型は衣服と同期している。

 武士のネイティブな衣服として直垂という服がある。平安時代末期から文献に姿をみせる直垂は南北朝・室町期を通じて布製から絹製となり公服に至った。直垂はさらに大紋や素襖を派生させた。なかでも素襖という布製の直垂から、日常着や戦時下の略装である肩衣が武士自身により生み出され、また、日常の中では街着に使うほか、客人と対面するときの姿を構成する胴服(羽織)を生み出した。

 肩衣は江戸幕府において登城時の正装(裃姿)と規定した。しかし江戸幕府以前の十五・六世紀の肩衣は、むしろ非日常的な戦時下の略装であった。戦国時代に至って、やっと正装に格上げされ、これより前代の室町時代においては、およそ守護大名が公的な場で身に着けるような代物ではなく従者のみなりであった。じょじょに上級武士らの用いるところとなり、はては大名クラスの武士の所用となる。戦国大名といえば下剋上というキーワードで語られることが多い。簡単に言えば下位の者が上位の者に替わって政治権力を奪取したり、領主になったりすることだ。すなわち、本来、肩衣を公服としていたような中・下級武士が主人を討ったり追放したりして上位に成り上がっていったことを意味する。肩衣の正装化は武士の衣服と制度における下剋上そのものであった。

 肩衣が武士に広がっていくのに比例して、おおむね十五世紀後半以降、武士の頭部から烏帽子が消え、何もかぶらない露頂となる。露頂は武士として「恥ずかしいこと」だといわれる。烏帽子の起源は七・八世紀の白鳳・奈良時代までさかのぼることができる。律令制における成人男性としての認定である戸籍・計帳における「正丁」の記述などに関係しているとみられ、その視覚指標として烏帽子の着用を義務付けたと推測する。それが中世にかけて、男子の社会構成員としての証と変化し、その理解の一つとして烏帽子を被らない露頂の姿は「恥ずかしい」というロジックが生まれたのだと考えられる。

 武士の髪型は冠帽具の有無というかたちで検出されるが、身に着ける衣服と密接な関係にある。次のような傾向を読み取ることができる。

①肩衣では烏帽子類を併用することはとても少ない。
②対する直垂・大紋はほぼ必ずと言っていいほど併用する。
③素襖にいたっては烏帽子を使用する人もしない人もそれぞれにいて、規則的なものはなかった感がある。

 武士の髪型を中世末期の肖像画や洛中洛外図などの風俗画にあたってみると、おおむね三種類くらいに大別できる。

A 頭頂部の前方を剃り、耳の上の剃りあげていない部分の高さはかなり低く、耳の少し上までとなる。髻はかなり小ぶりで、前に向かって倒し加減にしている者が多い。
B 髪を一切剃り上げない総髪で頭頂部前方から後方にかけて引き、大小はあるものの上方に向けて髻に結う。
C この派生形で髻を大きめに作り上方に向け端を少しさばいてみせる茶筅髷という髪型がある。髻が茶道で用いる「おちゃせん(お茶筅)」と似た形状からきた呼称。

著書『武士の衣服から歴史を読む』の書影

 室町時代の後期から戦国期における武士たちは、侍烏帽子を礼装の直垂とともに用いる。大紋でも素襖でも使うが素襖では必ずしも用いない。烏帽子の着用自体が厳儀の儀礼での使用と限られていた。侍烏帽子をかぶらないときは頭部を露出し、後頭部で髪をまとめて髻を結う露頂が基本になる。Aは、十五世紀ころからあらわれる、頭部の前後に小舟を裏返したような形状の硬化した侍烏帽子、すなわち俎板烏帽子・納豆烏帽子を用いるのに適している。侍烏帽子の後方部分は非常に浅く、髻を小さくつくらないと入りきれない。そのうえで侍烏帽子内部につけられた烏帽子止めという紐や緒で髻に強く結びつけ、烏帽子の落下やずれによる不格好な様とならないようにする。Bでは普通の髻の大きさなら侍烏帽子に納まる。それでも上方に向けて結い上げている場合は少し無理をしないと侍烏帽子のなかに納めることができない。Cにいたっては大きすぎて侍烏帽子の髻を納めるどころか、烏帽子自体を頭に載せることさえできないであろう。

 十六・七世紀の絵画史料では侍烏帽子をかぶっている状態を描く場合、髻はまったく外から見えない。そもそも侍烏帽子がなぜこんなに硬く小さなものになったかはわからない。ただし、かつて鎌倉時代から南北朝を経て室町時代中頃まで使われていたであろう、多少は柔らかめで頭頂部のかなりまで覆う折烏帽子は、後端に元結とよばれた中の髻に結び付ける紐や緒があった。そのうえで烏帽子止めを新たに設けている。したがって、髪型の変化に合わせて折烏帽子が侍烏帽子に変化していったのであろう。

 AとBは侍烏帽子を特別なことをしないで使うことができる。直垂・大紋・素襖では礼装の際に侍烏帽子を併用するが、直垂・大紋・素襖より儀礼的には低い位置づけの肩衣ではほぼ用いない。もちろん胴服でも用いない。興味深いのはA・Bいずれも頭頂部を露出する露頂であり、前述のごとく、かつて朝廷貴族社会がさだめた「成人男性は露頂を恥とする」というしきたりに反するものだということだ。これはやはり武士の社会的な立場の上昇が一因であろう。なお、Aは武士、Bは武士以外の学者や医師などの教養層、今風に言えば「インテリ」層の髪型となっていく。

 ところで、Cは「侍烏帽子をかぶることを最初から考えていない」、という烏帽子の着用を拒否する意志表示かもしれない。「侍烏帽子をかぶらない」、というのは直垂を着る意志がないということだ。武士の序列として下位にあるとか、あるいは誰かと主従関係を結んでいない、仕官していないということで直垂も侍烏帽子も必要ないということになる。実質的には武家の儀礼観が必要とされるような場に出入りしない(できない)ことを意味する。こう考えてくると、「今は浪人でも将来は誰かしっかりした人物に臣従したい」とか、自分は足軽や夜盗ではない、というような自覚のある人々は毎日しっかり月代を剃ったり、髻をきれいに小ぶりに結うとかのことをしていただろう。おそらく同じくらいの時期に武士の世界に後半に広がった正装としての肩衣姿とともに、新しい変革・新しい武士像を思い描く人々にとっての意思表示であり、反骨のような意味合いを持っていたのかもしれない。

 人の姿を構成する髪や衣服、冠帽具とは本当に興味が尽きない。室町幕府由来の武家儀礼を重んじる人々が侍烏帽子に直垂や大紋・素襖を着ているなら、その人々が室町幕府由来の儀礼観から距離をおく、露頂に茶筅髷や肩衣を正装とする人々により凌駕される状況「下剋上」の風潮を示していると考えられる。

(さた よしひこ・立正大学文学部史学科教授) 


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