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南部家のあり方と藩主の個性 兼平賢治

 盛岡藩南部家といえば、鹿児島藩島津家や中村藩相馬家とならんで、中世以来、転封などすることなく、同じ地域を支配した大名として取り上げられる。そうしたことから、南部家は旧家であり、旧族外様大名として分類され、古くからの歴史や文化を伝える大名家、というイメージが強い。実際に、南部家の家中の者たちのなかには、自分たちを旧家の譜代として、武を重んじ、そこにアイデンティティを持っていた者たちも多かった。

 しかし、実態としてみると、盛岡藩主家となる三戸さんのへ南部家は、中世においては、現在の青森県三戸郡を拠点に勢力を張った南部一族で、次第に勢力を南に拡大し、拠点も三戸から盛岡に移していた。その間、新たに獲得した地域の者たちも取り込んで家中を形成していったから、南部の譜代を自認する者たちを、どこまで譜代と見なすかは、実は難しい。

 さらに、寛永九年(一六三二)に藩主に就任した三代南部重直しげなおは、新たな支配秩序が打ち立てられ、藩政の確立に努めるなか、江戸で全国各地に出自をもつ牢人やその子弟を新参家臣として召し抱えていた。その数は、実に約二百人にものぼる。こうしたこともあり、譜代を自認する家中の者たちは、重直を暴君として、また、新参家臣を巧言こうげん令色れいしょくの士として描き伝えていく。しかし、重直の死後、新参家臣のなかで特に重用された赤尾あかお又兵衛兄弟は辞去したものの、多くの新参家臣は、南部家を支える不可欠な存在として、見込まれた能力でもって奉公に励み、家中として「家」を伝えていった。

 このように、全国各地に出自をもつ新参家臣を数多く取り込んだ南部家の家中は、一般にイメージされる、譜代家臣によって早くに形成・固定化されていた旧族外様大名の家中とは、その性格が異なるものであった。

 そして、盛岡藩南部家は、その後も、江戸時代をとおして、「家」のあり方を模索し、大きく転換させながら、幕末をむかえる。そこには、歴代藩主の個性も大きく影響していた。シリーズ「家からみる江戸大名」のなかの一冊として、『南部家―盛岡藩―』を執筆したが、筆者の描いた「家」からみた盛岡藩南部家は、南部家という「御家」の構造を詳しく解き明かすことではなく、南部家の「家」の特徴や個性といったあり方が、どのように変遷していったのか、そのことを描くことに主眼をおいている。そうしたときに、藩主という「個人」の個性も、きわめて重要な視角であることを、拙著では強調して描いた。

 「人」と「家」との関係について筆者は、寛文三年(一六六三)の殉死禁止令とその後の動向について論じた際、十七世紀における「人」から「家」へという転換のシェーマそれ自体はそのとおりだと受けいれつつも、殉死にかわって行われた、亡き主君の菩提を弔う剃髪ていはつという行為から、「家」重視の価値観が定着していくなかで、主従関係の属人的要素は、否定されるものではなく、主従関係を支えるもうひとつの柱としてあり続けたことを指摘したことがある。事実、幕政や藩政において、主君との属人的関係の深い御用人ごようにん御側おそば御用人が、十七世紀末からはじまる元禄期以降、重要な役割を担うようにもなっていく。

 ただし、この場合も、あくまで職制に位置付けられ、「御家」の存続を不安定化させない範囲において、「個人」の個性や能力が発揮されるものであったことには、留意する必要がある。江戸時代初期に活躍した出頭人とは異なるのである。盛岡藩南部家のあり方を問うとき、先に述べたように、拙著では藩主「個人」の個性に注目しているが、「人」と「家」との関係については、いま述べたような筆者の基本的な考えがあってのことである。南部家という「御家」のあり方を常に問い、どのように存続させていくかを模索し続けて、歴代藩主は江戸時代を生きていた。このような理解に立ったとき、先に紹介した三代重直も、藩政の確立にまい進するなか、譜代家臣ではなく新参家臣を重用することを選択していた。譜代家臣から反発を受けることになったが、重直なりに南部家の存続を模索した結果といえよう。

『家からみる江戸大名 南部家―盛岡藩―』の書影


 さて、詳しくは拙著をお読みいただきたいが、盛岡藩南部家のあり方を大きく転換させた、個性豊かな藩主として、八代利視としみ、十一代利敬としたかの二人を紹介しよう。

 まずは利視である。享保十年(一七二五)に藩主に就任した彼は、十七世紀に進んだ江戸への傾倒、そして、それによって「御国」の文化や言葉、習慣である「国風くにぶり」が取り失われる事態に直面して、強い危機感を抱き、江戸者に「田舎者」と笑われたって取り繕う必要はない、と宣言して、盛岡藩南部家の歴史と文化、由緒を重んじ、家中や領民にもそれを求めていた。
 こうした背景には、実は利視の生い立ちも深くかかわっている。彼は六代信恩のぶおきの実子であるが、まだ母親が身籠っているうちに父信恩が亡くなったため、叔父の利幹としもとが藩主の座を継いだ。利視は盛岡で生まれ育ち、利幹の晩年、たまたま跡継ぎが幼少だったことから、利幹の養子となることで藩主の座がまわってきた。しかし、利視の認識としては、自分こそが本来藩主になるべき者だとして、先代の利幹を中継ぎとして軽視し、自身の立場を正当化すべく、南部家の歴史や由緒を重んじていく。利視という「個人」の生い立ちを含めた個性が、盛岡藩南部家のあり方を特徴づける要素にもなっていたのである。

 次に十一代利敬だが、彼は南部家の家格上昇を図り、文化元年(一八〇四)に若くして四品(従四位下)に昇り、さらに文化五年、蝦夷地警衛の功績によって二十万石に加増され、侍従に任官して、国持大名となった。彼は、これまでの南部家の仕来りは「小家」のものだとし、ほかから笑われないようにするために、「諸国一統の風儀」を取り込んでいく。

 こうした背景には、盛岡藩南部家を取り巻く環境もあった。十八世紀になって、広域に発生する飢饉への対策が隣藩と比較されたこと、また、活発な経済活動を背景に他領者の往来が頻繁になったこと、さらには、ロシアの南下という対外的な危機によって蝦夷地に幕府役人が領内を通行して渡るという事態が発生し、南部家や藩主の評判を左右する「外聞」が特に重視されていたことが挙げられる。そうしたなかで利敬は、寛政七年(一七九五)の初の御国入りに際して大規模一揆が発生し、最も重要な「外聞」を失ったところから藩政をスタートさせている。「外聞」を取り戻し難い、と悔やんだ利敬は、これ以上、「外聞」を失うことは避けなければならず、家格を上昇させ、笑われない南部家をつくりあげる必要があったのである。

 このように十八世紀には、「笑われても構わない」という南部家から、「笑われない」南部家へという大きな転換が、藩主の個性も含めたさまざまな要因を背景にみられたのである。

 最後に、近年の研究書や他県の自治体史では、南部利直を初代、南部重直を二代として表記するものもある。初代とされてきた南部信直は、慶長四年(一五九九)に亡くなっており、歴史用語としての藩は、江戸時代を想定しているから、信直を藩主に含まない、というのは理解できる。しかし、盛岡藩南部家の歴史の描き方や信直の位置づけ方からすると、やはり初代を信直、二代を利直、と表記したほうがしっくりくる。拙文や拙著のなかでもそのように表記した所以である。

(かねひら けんじ・東海大学文学部准教授) 


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