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市川森一さんと遠山景晋のこと 藤田 覚

2022年6月に刊行した『遠山景晋』(人物叢書)。さて、皆さん歴史上の人物で、遠山と言えば…そう金さんですよね。さて今回は取り上げる遠山景晋≪かげみち≫とは、「金四郎本人」…ではなくて、実は金さんのお父様なんです。著者の藤田覚先生には、『遠山景晋』ご執筆にあたり、思い出深いエピソードをご執筆いただきました。 
本誌161号に収載したエッセイをnoteに公開します。ぜひご一読ください!

 2011(平成23)年12月10日の夜、脚本家市川森一しんいちさんの訃報を伝えるNHKニュースを見てはっと驚いた。死去の報とともに、書斎の机で執筆している背後の大きな書棚に、『大日本史料』が収められていたからである。私の見間違いだったことを恐れるが、私にはそう見えた。

 それを去ること約16年前の1995年3月6日、光文社の編集者K氏から、私が当時勤めていた東京大学史料編纂所の部屋に1本の電話があった。用件は、市川森一さんが、長崎奉行時代の遠山景晋かげみちを主人公にした小説を光文社から出版し、それを原作にしたテレビドラマを作る予定、という内容だった。そして、3月10日にK氏が史料編纂所に来所され、場所を失念したが市川さんと落ち合って面会し、用件の説明をうけた。後に高名な脚本家だと知ったが、私は芸能方面に疎いため、当時は市川森一という名をどこかで聞いたことがあるような気がする程度だったので、礼を失する応対があったかもしれない。

 私は、1992年に『遠山金四郎の時代』(校倉書房、2015年に講談社学術文庫)を出版した。幕府天保の改革を主導した水野忠邦ただくにの質素倹約令、寄席廃止、芝居三座の撤廃か移転、人返し令などの政策に対する町奉行遠山金四郎景元かげもとの反対・抵抗をとおして天保改革の都市政策を考察した、30歳前後に取り組んだ論文を核にした本である。それだけでは味気なさ過ぎるので、近代における遠山金四郎の人物像や入れ墨(刺青しせい)をめぐる言説を紹介した。父親である景晋については、学問吟味で首席合格したこと、対外関係で東奔西走したこと、異国船打払令発令を主導したことなどを簡単に紹介した程度だった。

 市川さんが私に接触しようとしたのは、この簡単な記述以上のことを私が知っていると思われたのだろう。実は、その頃の私は景元しか関心がなかったため、景晋にさしたる知識と情報を持ち合わせていなかったので、汗顔の至りである。それでも、東京大学法学部法制史資料室に「遠山家記録残闕」が所蔵されていて、そのなかに景晋自筆の長崎奉行時代の日記もあることを伝えると、強い関心を示され入手したいと話された。そこで法制史資料室に案内し、助手の方に事情を話して見せていただき、写真にして入手することになった。勿論、くずし字を読めないのでなんとかして欲しいとの要望をうけ、史料編纂所の若い方の手をわずらわせ翻字してもらった。

 長崎奉行時代の自筆日記が現存することを知った市川さんは、「(小説・脚本の)へそができた」と話されたことが強く記憶に残る。遠山家の家老の名、奉行が人びとを慰労するさいにかける「大儀たいぎ」という言葉などが日記に出てきて、大変喜ばれたことも思い出す。

 その後、数回お目にかかった場や電話などで質問をうけることがあった。質問は、史実に反し史実としてあり得ないことは書きたくないが、史料上はっきりせず、あり得る、あるいはなかったとはいえないことは創作してもよいと考えるので、このようなことは書いても良いか、という趣旨のことだった。私は、荒唐無稽とまではいわないが、史実を無視した勝手な時代小説や歴史ドラマには嫌悪感すら抱いていたので、市川さんの姿勢は信頼に足ると思い、わかる範囲で質問にお答えしたつもりである。なお、市川さん自身、2005年に長崎歴史文化博物館から刊行された『夢暦ゆめごよみ 長崎奉行』(2000年に光文社から刊行された文庫版に「はじめに」と「解説」をつけたもの)の「はじめに」に経緯の一部を書かれている。なお、「夢」は市川さんの好きな言葉だったと奥様の柴田美保子さんが書かれていた。

 1996年に放映されたNHK金曜歴史時代劇『夢暦 長崎奉行』の日程が具体化すると、NHKの製作担当者から、監修という趣旨だったのか記憶は不確かだが、脚本を読んで欲しいという主旨の依頼があった。脚本はいつできるのですかと質問すると、はっきりしないという回答だった。そのようなことに関わったことがなく、ドラマ作りの現実も承知していなかったので、予定がはっきりしないような仕事は、大学教員として日々の仕事にめいっぱいの私にはとても無理だとお断りした。市川さんには申し訳ない思いがしたものの、私がつきあえることではないとの判断も間違いではない。

 不義理をしてしまったが、2005年に、市川さんが企画段階から深く関わり、名誉館長に就任された長崎歴史文化博物館の開館セレモニーに呼ばれ、復元された長崎奉行所の書院で市川さんと「トークショー」をし、前掲のご著書の即売会で、市川さんの横に座り連名でサインしたことなどが懐かしく思い出される。

著書『遠山景晋』の書影

 冒頭の話に戻ると、このような経緯のなかで市川さんから、「今後、本格的に歴史物を作ってゆくつもりなので、どのような本が必要か」という趣旨の質問をうけ、とっさの思いつきで答えたのが『大日本史料』だったのである。私は、そんなことをすっかり忘れていたが、訃報の映像をみて、市川さんは私の話を真に受けて本当に入手したのかと驚いたのである。本格的に歴史ドラマに取り組もうとした市川さんの真摯な思いに、深く感動した次第である。

 市川さんから郷里長崎(諫早いさはや出身と聞いていた)と長崎奉行、そして遠山景晋への強い思い入れと愛情をじかに伺っていた。それには及びもつかないが、史料を蒐集して読み込み、その生き方に共感を覚えつつ、生涯を辿ったのが日本歴史学会責任編集による人物叢書『遠山景晋』である。

 人物叢書は、1958年、創刊時の高柳光寿による「刊行の辞」に、「日本歴史の上に大きな足跡を残した人々、もしくはある時代、ある階層を代表するような人物」を対象とすることが記されている。その点、遠山景晋は、実子でテレビドラマ「遠山の金さん」シリーズの主人公、遠山金四郎景元に比べ知名度は低い。そのため、遠山景晋を人物叢書の1冊にするのはいかがなものかと思ったこともある。余談だが、16年ほど前にある出版社から何か書いて欲しいと依頼されたさい、遠山景晋なら書けるかもしれないと案を出したが、名前を知らないと却下されたほどである。

 しかし、さきの「刊行の辞」には、「個人がその一生をどう生活したか。そしてそれが社会とどんな関係にあるか。それをはっきりさせることは人生の探求であり」とも書かれている。自筆の日記、各地へ公務出張したさいの紀行文、およびいくつかの著作物により、知行500石の一旗本・幕臣の生涯を、公務上の事績のみならず、父母、妻子との関係や精神面にまでわたって追うことができる遠山景晋は、人物叢書の1冊になる資格があると考え直した。

 景晋は、揺るぎない権威を帯びた将軍への奉公、忠節を第一として職務に邁進する「精誠奉職」、それを自らの生き甲斐、喜びとする幕臣の心性や精神構造の持ち主だった。遅咲きだったものの景晋の出世は、出世それ自体が目的や目標ではなく、職務の結果にすぎなかった。

 本書を哀惜の念を込めて、陰ながら市川森一さんのご霊前に捧げたいと思う。

(ふじた さとる・東京大学名誉教授) 


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