「人からみる」大名家 根本みなみ
全国に大名家は数あるが、萩藩毛利家ほど多くの人がイメージを抱きやすい大名家も他にないのではないだろうか。しかし、「中国一〇ヵ国の覇者」ではなく、「明治維新の立役者」でもなく、「江戸時代の毛利家がどんな大名家だったか」となると、話は違ってくるかもしれない。実際、萩藩毛利家という「家」は仙台藩伊達家のように大規模な御家騒動を経験することもなく、鹿児島藩島津家のように将軍家に御台所を送り込むことに成功し、武家社会の中心になるようなこともなく、少々言い過ぎかもしれないが、ごくごく一般的な外様大名として二〇〇年余を過ごした。しかし、その「一般的な外様大名としての二〇〇年余」は決して平穏無事な歳月だったわけではない。
御家騒動がないという事は、すなわち三子教訓状を出した毛利元就以来の一族の結束の賜物であるようにも見えるかもしれないが、実は違う。むしろ、毛利元就以来の一族の結束が毛利家の家風であるかのように錯覚させる仕組みは、江戸時代に岩国吉川家や一門たちとの争論の中で萩藩毛利家が盛んに利用した理屈であり、より分かりやすく言えば一族結束を家風とする毛利家というイメージ自体が、ある意味で萩藩毛利家の努力の賜物なのである。
幕末の展開を知っていると意外にも感じるかもしれないが、大藩・雄藩と思われる萩藩毛利家も官位という点から見れば、金沢藩前田家はもちろんのこと、仙台藩伊達家や鹿児島藩島津家には及ばなかった。むしろ、萩藩毛利家は近世初期の逸話から米沢藩上杉家や熊本藩細川家をライバルとして常に意識し、彼らの官位昇進には敏感に反応した。本書の中でも紹介したが、八代藩主治親(世子時代は治元)は家督相続前に侍従に昇進した。これ自体は萩藩毛利家にとっても慶事ではあるが、治親の正室節姫の実家である田安家の協力を得てまで治親の昇進を急いだ背景には、他大名家に対する強い対抗意識が存在していた。この時、他大名家の世子の昇進の風聞を耳にした萩藩は急ぎ田安家を通じて大奥へ働きかけを行ったが、治親の昇進に対する悲観的な見通しを示された重就・治親父子の様子について、史料では父子ともに「御鬱気」という状態であったとしている。より高い官位や家格を求めて他者と必死に競い合い、その結果に一喜一憂する姿は滑稽にも見えるかもしれない。しかし、常に他者を意識しなくてはならない社会の中では容易に競争から抜け出すことはままならなかったと考えれば、同じように社会の中で他者と生きる私たちも共感できる部分があるのではないだろうか。
こうした事情があったからこそ、大名家は内願に熱中していくことになるのだが、人を通じた内願自体がある意味「家」が継承する一種の技術でもあるから、実は上手い下手がある。六代藩主宗広の代には官位の昇進を期待し、老中から求められるままに掛け軸や茶器などを「貸す」という名目で渡しているのだが、結局貸した物は返ってこず、官位の昇進も実現しなかった。当時の萩藩毛利家は分家出身の藩主に代わり、有力者とのつながりもなかったから当然と言えば当然のことであるが、ただ単純に賄賂を渡すだけでは不十分ということであろう。実際、田安宗武の娘である節姫(邦媛院)を世子の正室に迎えた途端、藩主も世子も順調に昇進したことから見ても、近世における人間関係の持つ影響力の大きさは推して知るべしというところだろう。
こうした人間関係の最たるものとして、本書(『毛利家―萩藩―』)では萩藩毛利家と松平定信のかかわりについて紹介した。ところで、定信が隠居後に記した『花月日記』では当時隠居していた斉煕に対して定信は好意的な印象を記しているが、当主であった斉元にはいささか厳しい評価を加えている。特に、斉元は定信に対し、後継ぎ(非常にややこしいが、斉元にとっては妻の弟であり、従兄の子でもあるが、将来は息子の義父になる)斉広の養育について相談に来たと定信は記しているが、一体斉元は斉広の養育にどういった意見を持っていたのか、また定信はそれにどのように答えたのだろうか。実に興味を惹かれる相談内容であるが、残念ながら斉元に好印象を持っていなかった定信は仮病を使って早々に斉元を追い返してしまい、会話の内容も記していない。養子当主であった斉元は隠居の斉煕の影響を強く受ける立場にあったと言われているが、定信の日記からは斉煕と斉元の性格的な違いも浮き彫りになる。また、定信自身も姉であると同時に正室の所生である節姫に対しては姉弟の親愛というだけではなく、むしろ異見することを遠慮しているかのような場面も散見され、権力者としての定信の意外な一面も萩藩毛利家とのやり取りの中で見ることができよう。江戸時代の社会構成する最小単位は「家」であり、したがって近代社会の中で想像されるような独立した「個人」は存在しないとされる。けれども、それは江戸時代の社会において「人」が不在であるということを意味しない。むしろ、「家」を見ていくと、「家」を構成する「人」や「家」を取り巻く「人」など、「人」の動きもまた見えてくる。そして、こうした「人」の営為の積み重ねもまた、萩藩毛利家の二〇〇年である。
「人」という点からいえば、本書では可能な限り大名家における女性たちの存在にも光を当てた。特に、八代藩主治親正室邦媛院、九代藩主斉房正室貞操院、一〇代藩主斉煕正室法鏡院、一一代藩主斉元正室蓮容院はその言動を通じてそれぞれの個性を見せてくれる。名門田安家に生まれた邦媛院は、夫の治親と藩政や財政について話をすることがあったと述べている。実際、邦媛院は幼年で家督を相続した養子の斉房の後見を担うとともに、萩藩毛利家の奥向きを一手に差配する存在として他の大名家や宮家からも認識され、「家」の内外から頼りにされる存在であった。しかし、斉房が成長した後には「国元の萩で生活したい」と願い、表向きの家臣や弟の定信を困らせることもあった。京都出身の貞操院は萩藩毛利家では初めて宮家出身の正室となったが、実は萩藩毛利家の近しい血縁者にあたり、幼い内から江戸の萩藩邸に引き取られて養育されていた。早くに夫を亡くし、京都や萩での生活が長かったものの、異母妹との交際を行うために萩藩毛利家の内願の仲介を提案するなど、「家」の利益に無頓着であったわけではない。法鏡院は夫の庶子たちの養育や側室となった女性の格式に気を配り、奥向きを差配する大名の正室として模範的であった。一方、庶子や側室たちに対する彼女の気配りが結果として当主や表向きの家臣との確執につながったこともあった。斉煕が家督相続前にもうけた蓮容院は生まれた時は「姫」でさえなく、父の家督相続によって「姫」になったという経緯を持つ。健康上の不安を抱えていた彼女を父である斉煕は心配し、「御前様」として大名正室となった後もしきりに自分の住居に呼び寄せていた。「大名の正室とはかくあるべし」という規範以上に、それぞれの生い立ちやその中で身につけた考えに基づいて行動を選択していく姿を知ってもらえれば幸いである。
本書のエピローグでは、毛利斉房の逸話を紹介している。詳しい内容は是非本書をお読みいただいて確認していただきたいが、生き残っていくことを第一とするこの発言こそ、「家からみる大名家」として萩藩毛利家を描く上で、もっともふさわしいのではないかと思う。
(ねもと みなみ・東北大学東北アジア研究センター助教)
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