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臥待月を待ちながら

ライブ:【無観客・生配信ライブ】 花田裕之 ”流れ”オンライン 下北沢・梅雨から初夏編(2021年7月2日、下北沢・ニュー風知空知)

臥待月と書いて「ふしまちづき」と読む、この言葉を知らなかったのである。このライブの終わり(本編)に「祭りのあと」(吉田拓郎)を聴くまでは。

手元の辞書によると、臥待月とは、出るのが遅いから臥して待つ月、とのこと。そうだったのか。

いきなりライブ終盤の曲から書き始めてしまったが、今回の「流れ」、昨年6月にオンライン形式が始まってからちょうど丸1年が経過し、2年目を迎えたことになる。

2年目の第1曲目は1年ぶりに聴く「汽笛が」(山口冨士夫)。なぜか聴いた途端、1周回ってまた同じところに戻ってきたような錯覚に陥ってしまったが、1年経って筆者は確実にひとつ歳を取り、花田裕之の髪はいつのまにかグレイに変わっていた。

この晩はアンコールも含め全18曲、うちカバー曲が15曲と多かったのが特徴だったように思う。こうした構成については意見が分かれるところかもしれない。ただ個人的には、初めて聴く曲はどこか懐かしく、旧知のものは再会を喜ぶ、という感じで、違和感はなかった。原典を初学者に解りやすく提示するのが教師の仕事、と昔どこかで聞いたことがあるが、その意味では「流れ」は、音楽的意識も知識も高くない筆者にとって良き教師であるかもしれない。

以下、そのほかの感想などをいくつか。

ステージ前半、ロックンロールジプシーズのレパートリーでもある「風の跡」、「空っぽの街から」は嬉しかった。しばらくジプシーズのライブもご無沙汰。特に後者の終わり近く、「空っぽの街から~」のフレーズが繰り返されるにつれ、だんだんと熱を帯びてくる感じがよかった。

曲の終盤の短い詞の繰り返しは、「祭りばやしがきこえる」(柳ジョージ)でも印象的だった。歌の文句の一字一句に過剰な思い入れを寄せることは避けたいのだが、「そこにお前が Baby いるだけで」の一言が強く心に響いた。昨年2月下旬以来、ただ「そこにいるだけ」のことが、いかに微妙なバランスの上に成り立っているのかを思い知らされている日々なので。

休憩を挟んだステージ後半では、花田オリジナルの新曲(歌い出し: 泣き濡れた瞳が)をフルバージョンで聴いて納得した。やはり歌詞に拘泥するわけではないのだが、未だタイトル知らずのこの曲は、詞の最初と最後の部分が全部示されてこそ意味をなす構造だと思った。つまり、歌詞の終わりと始まりがループを描くようにつながっている、というのが筆者の理解。(違っていたらすみません。)

さらにライブも佳境、「なまずの唄」の出だしの思わせぶりなギター、そしてアンコール、「No Expectations」での、弱いところをらすだけらしてくすぐってくるようなスライドギター。両者ともすごくセクシー、すごくいい。この2つに限らず、今回は総じてギターの聴きどころが多かった。イントロからアウトロまで音が整理され、旋律が鮮明、丁寧に組み立てられていたように思う。

ところで冒頭の「臥待月」だが、調べによると、陰暦19日の夜の月で、満月の4日後の月であるそうだ。秋の季語ではあるものの、満月が28日ごとにやって来るように、臥待月も28日ごとに訪れる。ならば次回の「流れ」、この臥待月のお出ましを数えて待つことにしようか。いや、平安貴族じゃあるまいし、筆者にしてはみやびやか過ぎる。あるいは、PCモニターに映る花田裕之ならずとも「コロナ、長いですね」とつぶやきたくなるような、この不穏な状況が好転するのにあと何回臥待月を待てばいいのか。その答えを筆者は知らない。(敬称略)

【花田裕之 ”流れ”オンライン 下北沢・梅雨から初夏編】
汽笛が(山口冨士夫)/Tell Me Why(Neil Young)/時の過ぎゆくままに(沢田研二)/風の跡/Wild Horses(The Rolling Stones)/空っぽの街から/祭りばやしがきこえる(柳ジョージ)/博多っ子純情(チューリップ)/Jealous Guy(John Lennon)//(休憩)//かんかん照り(井上陽水)/花・太陽・雨(PYG)/新曲(歌い出し: 泣き濡れた瞳が)/ 泣きたい時には(山口冨士夫)/なまずの唄(サンハウス)/Don’t Let Me Down(The Beatles)~草臥れて(村八分)~Don’t Let Me Down/祭りのあと(吉田拓郎)//(アンコール)//雨(サンハウス)/No Expectations(The Rolling Stones)

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