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屋台ラジオ 27日 OA アサダワタルさん

アサダワタルさん 21:00~21:45

今年の1月に屋台の常連さんが「まなざしラジオ!! in 芸劇」という企画に関わって仕事をしており、詳しくお話の内容を伺うとアサダワタルさんが企画をしているプロジェクトでした。実は6年前のイベントでアサダさんとご一緒した経験があったのでそのような縁に恵まれたことにとても驚かされました。そして、私自身出会った頃には見えていなかった景色がぼんやりと見えはじめたこともあり今回ラジオを依頼をさせていただき、アサダさんの活動の中から「住み開き」を切り口にお話をさせていただきました。

アサダサン

住み開きとは

「住み開き」とは住んでいる場所を開くという意味で作った造語ですけど、使い始めたのは大阪に住んでいた2008年でした。その時も今と同様にいろいろなアーティストとアート活動をする仕事をしていて、音楽を作ったりとか文章を作ったりとかやっていたのですが、そのなかで友人たちと大阪・南森町のマンションの一室を使った場所をやっていました。シェアハウス兼シェアオフィスみたいな形で、僕ももう一つの家がありながらよく通って宿泊していました。住居空間なんだけど住所を公開していろいろな人にこの場所を面白く使ってもらうためにおすそ分けするみたいな形でトークイベントとかちょっとした展覧会とか上映会とかをやっていたんですね。なにぶんマンション一室なんで15人も入ればいっぱいなんですけど。
そんな活動を大阪のいろいろなクリエーターが知ってくれるようになって秘密基地の様に場をやっていたんですけど、その時にこれくらい小さい形で気軽にというか、お金儲けでは全然なくて自分たちのもちだしやみんな持ちまわりで色々なことを担当して友人知人が集まって場をやるというのがすごく楽しかったんですよね。

― 小さな場づくり ―
僕自身も行政の仕事とか場所の作りを仕事でやっている経緯もある中で小さい範囲でやれる表現活動というか小さな場づくりみたいなのがもっと広がったら大きな場所を借りてなくても、自宅の空いている部屋を使うだけでもいろいろなコミュニティスペースを作れるんじゃないかなっていう妄想みたいなのが沸いてきました。それで調べたら大阪で家の一角をつかって活動をしている面白いアーティストとかまちづくりの人とかがいたんですよね。そういう人たちと一緒に繋がって家を開いていくムーブメントみたいなのを作れないかなって思い、自分の好きなことをキッカケに無理なく自分の住居を開いていく活動を「住み開き」と定義づけをして、広げていったということが10年ちょっと前。

― 住み開きをはじめたけれども、辞めていった人々 —
大阪でやっていた「208南森町」は2010年に閉じたんですけど、そこの常連さんだった友人が今はそこで古本屋さんをやっていて、場所自体が無くなるということではなくて人の縁が続いて行ったりとか発展的に違う場所になったりとかする中である意味「住み開き」みたいな小さな活動がスタートアップになって新しい活動に繋がったりもするというのも見てきました。
あと、単純に家なのでライフステージが変わるタイミング。たとえば、結婚するとか子どもが生まれるとか。そういうときに家をそのまま同じ場所で開き続けるのが難しくなるというのは絶対あると思うんですよ。
でも、お店ではないので閉じるということは、「お店を閉じてしまったんだね」という残念さよりは新しいステージに向かったり、ネットワークがつながった人たちと何かやるみたいなイメージをあらかじめ想定はしていました。
辞めていく人、続けていく人、発展的にさらに変なところを作っていく人とかいろんなパターンがあるので、最初に「住み開き」の本を出した2012年から8年たった今、増補版を出版して「住み開き」という言葉や、活動をしている人たちが時間経過によってどうやって変化をしているのかを自分も見つめ直しました。

― 「住み開き」を仕事にするという考え方はあるのか ―
厳密にいうとこの場所がスタート時点になることはあっても、食べるためにやるという人の方が少ない。
食べるための発想になるとすると生活をするための仕事があって、もう一方で自分の趣味もそうだし、いろいろな人と繋がりたいなと思って家を開いている活動が徐々に「生活をするための仕事」と「住み開きをしているライフワーク」みたいなものが混じっていって、結果的に仕事を辞めてしまって「住み開き」で得たコミュニティとかネットワークとともに仕事ができないかと模索してやっていった人たちは結構います。
コミュニティに関わる仕事をするというのは仕事の内容としてすごくわかりやすいし、場合によっては不動産に関わるとか、空き家再生に関わるとか、そういうようなことを自分の生業として編みなおしていくというパターンの人もいます。もちろんシェアハウス的なことをやってらっしゃる人も。

― 食えるか食えないかという考え方を根本的に変えていく人たち ―
同時に僕がおもしろいなと思うのは食えるか食えないかという考え方を根本的に変えていく人たちがいるんですよ。今回新しく事例で取り上げた中の半分くらいそういうような人がいるんですけど、地方に移住をした方々が結構多くて、都会や地方の中でも都市部に住んでいた人たちが田舎の古民家だったりとかいろいろなところを改修しながら、そこで「地元の生業」と「一部の農業」と「自分が元々都市部で持っていたスキル」みたいなものをかけ合わせて「開くこと」と「新しい土地で生きていくこと」をつなげてやっている人たち。
例えば新潟県十日町のギルドハウス十日町さんとか島根県雲南市のつちのと舎さんとか、福岡県糸島市のくるくるハイツとか。そういうところのみなさんは根本的に働くということを変えている人たち。
ビジネスとしてどこかからお金を稼いでくるというのベース自体を変えて、公私共々全部ひっくるめて生きてゆくというスタンスはすごく面白いなと思いますし、大阪でやっていた時には思いついていなかった発想なんですよね。
あえて仕事の時間と生活の時間を分けるのであれば、家という生活の拠点になっているところを開くという視点がだけにみえるかもしれないけど、すごい仕事観も変える可能性があるなと思っています。

― 「住み開き」には成功も失敗もない ―
よく誤解されるんですけど、地縁的なコミュニティとかを否定しているつもりは全くなくてそれはすごく大事だと思っています。それがあることで今みたいな状況を乗り越えられると思っているのと同時に「住み開き」というもう一つのコミュニティもあるわけじゃないですか、そういうものがうまく対立せずに語られていくような感覚を増していくようになったらいいなと。
自分の家という場所を開くというのはすごくハードルが高いと思っている人がいるかもしれませんが、ぶっちゃけ一年で辞めちゃったとかでも、「住み開き」そのものに失敗も成功もないと思っていていろいろな形でやってみたらいいじゃないかと思います。
本当に面白い方々の実践とか人生観というのが詰め込まれていて、こういう形の場づくりもあるんじゃないかとかコミュニティとか表現を研究している人にはぜひ読んでもらいたい一冊になりました。

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表現をすることにとらわれない

表現をもっとしようとは僕は思っていなくて、表現をしようと思って何かをするというよりは、大勢の人でなくてもたった一人の大事な人でもいいので伝えたくなること大事にしています。
自分たちの生活を生きやすくするための方法に自覚的になるってだけで十分というか、自覚的になった先に、それをもっと人に伝えたいとか形にして何かをしたいとなったときにいわゆる目に見える表現として書くという行為とか写真を撮るという行為の何かに変換をするというようになるのかもしれない。

― 自分たちの生活を生きやすくするための方法とは —
自分を楽にするとか自分を自由にする方法は色々あって、登山に行くということもあるかもしれないし、銭湯にいくとかもそうかもしれないけど、その時にその人なりのルールがあると思うんですよね。どういうこだわりを持って山へ行くのかとか、銭湯の後は必ずこのお店で一杯飲んで帰るルートがあるとか、別に表現という言葉は使わないんですけど自分たちの生活の中のその人にしか当てはまらない導線というか線の引き方が必ずあると思います。100人いたら100通りあるし、その中で自分の譲れないものとか、この組み合わせが自分の中で非常に重要であるとか、私にとって非常に気持ちがいいんだとかっていう法則を見つけることだと思うんですよ。

― コロナは回路の編みなおし期間 ―
ほとんどの人が何かに変換する手前の自分にとって必要な回路すらほとんど麻痺をさせて生活をしている。僕も忙しかったらそうです。忙しい時でもなんとかやれるんですけどどんどんいろいろな回路が切られていっていてそれを修復するというときに改めて気がつくことはすごくあると思っています。
様々な選択肢があるなかで、選び取ったものの組み合わせかたと順番みたいなものを一個一個確認する、もつれているものをほぐしなおすみたいな作業が今はとてもやりやすい期間。自分にとって何が欠けたら大変だったんだろうか、人から見たら笑われることかもしれないけど自分にとってかけがえのないこだわりみたいな回路がハサミで切られてショートを起こしている状態だから。
回路のつなぎ合わせる方法は別に何でもいいと思うんですよ。気分転換してマラソンしようかなとか懐かしい友人に連絡をするとか。

― おすそ分けとしての表現 ―
何か表現しようというプレッシャーや何かをしないとという強迫観念があるとしたら、そういうことよりも自分自身が楽に、自由になるためにやるということに立ち返ってその先に、他人に対してもおすそ分けしようみたいな形で表現ができたらそれが一番いいんじゃないですか。

コミュニティの選択肢があるということ


― 時代の変化によってコミュニティの重要度はかわるのか ―
地縁のコミュニティや趣味のコミュニティなど、どれも大事。例えば家族であったりだとか恋人とか身近な人たちと同じ土地で同じような状況で暮らしていくと、都市部であろうが田舎であろうが自分の地域みたいなものがあるわけですよね。自分が暮らしている地域の中では当然地縁というコミュニティの中で生活をするのと同時に、仕事で多くの人たちが電車にのって違うところに行ったりとか、仕事以外の時間で趣味とか、サードプレイスみたいなものなどどれも欠かすことのできないコミュニティ。

― コミュニティを移動する ―
どれも大切なコミュニティなんですけど、語弊を恐れずにいうとコミュニティを選べる、あるいはコミュニティを複数移動できる。
それはAというコミュニティからBというコミュニティに移動したらAというコミュニティはなくなるわけではなくて、一日の中でいろいろなコミュニティを移動する、一週間の中でいろいろなコミュニティを移動する、半年の単位で移動することが、自分にとってのコミュニティバランス見つける。これは個人的な考え方ですけど僕にとってすごく生きやすいなと。

― いい塩梅の関わり方をみつけてゆく ―
僕にとってどのコミュニティが大事という発想よりもどういう風にそのコミュニティに関わるのかというところに僕は興味があります。どうしても切り離せないコミュニティってあると思うんですよ、いろんなしがらみの中で生きているから。もちろん僕にもあります。
だからせめてどんどん相対化していくことやズラすことによって違うコミュニティに思いをはせながら同時にこっちにも帰ってこれる塩梅を自分たちでコントロールする。また、こういうコミュニティが足りていないと思ったら自分で場所を作ってしまえと場づくりをするということがあると思うんですよ。なのでコミュニティは関わり方が大事なのかなって。

ネット社会での自己発信


かつてもう少しちゃんと文章を書こうと思ってブログをやっていたんですけど、途中から本を書くようになったりとか媒体で書くようになって個人的なことを書くのはFacebookに移行してしまったんですけどやっぱり流れていくんですよね。実際タイムラインというもので流れていくし自分の中でも書いたという気がしないというとちょっと変だけど、あまり深く掘って刻んでいるというイメージが書き手としてまずないんでですよね、SNSって。そのことは読み手にも呼応していると思っていて、特にTwitterとかそうですけど反射神経が問われるメディアじゃないですか。そのときにコメントをバッとしなければいけないとか、気の利いたことをどのタイミングでやるかということを見計らっているみたいな。あの感じの中で何かを載せていくということは自分には向いていないなというのもありますし、じっくり自分のことを考えて書くとか話すとかみたいな場をもう少しつくれたらいいなと思っています。

― 消費されてしまう言葉たち ―
いろんな発信が簡単になっているから助かっている部分も大いにありつつ、それをファストフードみたいな感じで大量消費・大量摂取を繰り返していくと単純にしんどい。
なので意識的にバサッとSNSを見ないようにしたりとかしている。どこかで情報がバーと流れているモードに乗るというよりも、自分なりに整理をしておかないと軽さゆえにそこに飲み込まれてしまうなということをずっと感じています。
特に今みたいなみんなが家で相当数インターネットを見るみたいなことになったときは、自分たちに必要な情報とかゆっくり考えられるメディアみたいのを選ぶことはすごい重要なんだろうなって思います。

日常を分厚くしてゆく

― Facebookの投稿で気になるものがあったのですがポストしたときはどういったことを考えていたのですか ―

コロナ禍でつくづく実感しているのは「イベント」という手法の脆弱さ。周囲のアーティスト仲間の多くは仕事がキャンセルになり、僕もそうだが、一方で、日常的に福祉現場に表現活動を織り交ぜて活動する分には、自分の感性や技術は機能する。表現者は「日常」の盤石さにこそ着目すべき。埋め込むのだ。


イベントって基本的に晴れの日で、お祭りの一部だと思うんですけどそういったことを仕事でやり続けているということもありつつ、自分の中で「住み開き」も含めてテーマが日常なんですよね。日常の中に表現的なものを埋め込んでいくこと。それは数千人を集めてどこかで芸術祭をするとかフェスをするという話とは違って、家に20人くらい集まってワイワイやっているけどその光景が不思議で面白いみたいなことで、一見地味なんだけど自分の小さな生活の母体のところから場は作れるんじゃないかなということを考えてきたし、同じような発想でいろいろなプロジェクトを作ってきたんです。
その中で現在、品川区の障がい者福祉施設のアートディレクターとして、関わらせていただいているんですけど、日々知的障がいのある方々と関わる中で展覧会をするとか音楽イベントをするとか想定はしていたんですが、今のところは当面それの目途が立たない。でも日常でやれることがいくらでもあって、いわゆる日常の障がい者福祉施設の日中プログラムに通ってこられるメンバーさんと関わることで、メンバーさんのすごさというか、本当に面白いモノの見方とか面白い才能を持っている方とやれることがいっぱいあって、より日常を考えていく必要があると思い投稿しました。

― 日常の中に文化を埋め込んでいく ―
イベントという晴れを目指して日常があるというのではなくて、晴れと褻の褻の部分の日常自体を分厚くするために文化を埋め込んでいくというのが自分としてはそもそもそれをやりたかったし、それをやってきたつもりもある。
自分もイベントに呼ばれたりすることもあるし、自分で企画することもできなくなっているなかで、もちろん残念な部分も当然あるし、世間がいろいろな接触をすることを願っていますけど、今だからできることに着目することで日常の部分で何をやれるか、色々なタイプの表現に関わる人たちは考えるべきだなと思いながら、ごちょごちょ動いているところではありますね。

27日OA 編集後記

ファンクショナル・コミュニティという言葉を教えてもらったことを思い出しました。これはどこかのコミュニティに籠るのではなく、その時々に合わせて移動しながらコミュニティを使い分けるというもので、アサダさんお話はまさにそれだと感じました。私はコミュニティを使い分ける中で大切なことは「関係性が終わらない」ということだと思っています。一度関係のあるコミュニティから離れてしまうとなかなか戻りずらい、もしくは戻ることはよくないと考えてしまう人が多いのではないでしょうか。
選択肢を持つということは、意識的にアクセスをしなくてはいけないので自分自身の中でそのコミュニティの居心地のよさを認識をする必要性があるのです。そのためには誰かの回路ではなく、自分だけの幸せ回路といものを見つけることが重要なのでしょう。場所を作る人間として屋台という場所がそんな選択肢の一つとなれればと思いました。




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