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参加させられている社会と暇

 つい先日71歳の誕生日を迎えた橘川幸夫さんが一年ほど前に

「今の参加型というのは全然参加じゃない。参加をさせられているだけだ」

といった言葉が今の社会をとらえるとても大切な言葉だと思いずっと頭の片隅に残っているのですが、この正月に読み始めた國分功一郎さんの「暇と退屈の倫理学」という書籍の中で

「労働が消費されるようになると、今度は労働外の時間、つまり余暇の時間も消費の対象となる」

という一文に触れたときに、一年前に伺った橘川さんの言葉が繋がったような気がしたのです。
 書籍の中では人類は消費を求め続けてしまうとあります。詳しくは書籍を読んでいただければと思いますが、仕事が忙しいことに充実感を覚えたり、SNSの投稿で多くのコメントがつくことに快感を感じる概念を止まることのない消費として説明をしています。

 世の中がまだまだ体力中心の社会だったころは仕事が山の様にあり仕事が忙しいことがある種のステータスであり消費の対象でしたが技術革新により仕事の質が変化をして余暇というもの増えたのが現代です。そしてみんな余暇の過ごし方に戸惑っているのではないでしょうか。
 一日中家にいると消費の対象が見つけられないために、健康維持という名目でジムに通ったり、メッセージで友達を集めて毎週どこかに遊びに出かけたり、有名なお店に足を運んで写真の投稿を行うのです。
そしてこれが「参加させられている社会」という言葉に繋がります。

 世の中には参加型メディアという触れ込みで誰でも情報を発信ができる仕組みが増えたために令和の時代は参加というテーマが消費の対象となったのです。
 しかし、本当に何かをしたい時は仕組みがあるから行動をするわけではなく、そこには他者の目線は存在しないはずです。好きな漫画の最新巻を手に入れて誰よりも早く読みたくて歩きながらでも読んでしまうような、学校を抜け出してでも何かをしたいというような感覚です。
 そして、その感覚を一人一人が体現していくことが、橘川さんの参加型社会であると思います。

 では、どうしたらいいのか。
 そんなことは分かりませんが、私は花を活けてみたり、公衆電話を見つけたら写真を撮ってみたりと何の変哲もない日々の楽しみを模索したり、こうやって文章を書くことで頭の中を整理して自分の湧き上がる気持ちを見逃さないようにしてあげたいなと思っています。

 少なくとも屋台を作ってる時のあの感覚は今振り返ってもとても楽しかったし、これからもあの感覚を味わいたいし、色々な人にも体験してもらいたいなぁと思っています。

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