ハロウィンに乗じた私の落書き

 10月31日はハロウィンということでいろいろなところでさまざまな仮装が楽しまれていたと思います。私があまり人が集まる場所が得意でないのでハロウィンの仮装などしないので目に付く情報が限られてしまっているのかもしれませんがあまりに否定的なコメントがネットに溢れていて驚きました。

 もちろん去年の渋谷の騒動があったからだと思うのですが、なぜ批判をしようと考え、その意見が支持をされることが多いのか。これはハロウィンだけでのことではないと思いますが考えていければと思います。

 では、批判的なコメントをする人はどこに不満を持っているのかざっとツイッター検索ででてきたものを羅列してみます。

「1億円のなんて無駄遣いだ。他に使い道がある」
「逮捕者が出ているんだからやめればいい」
「いい年をした大人がバカ騒ぎをしているだけ。低俗イベント」
「ごみ以外にも近所迷惑などの問題も溢れている」

 これをみて一つ分かることはどれも当事者ではないということです。
ということは、事実かどうかよりも自分が嫌だ、不快だと思うことをネット上に書き込んでいるだけなのだろう。
 だって1億円税金が…なんていうが普段どういう風な割り振りで税金が使われているのかも分からなければ比較検討も出来ないし、改善案も出せない。そもそもハロウィンの経済効果がどれくらいあるのかということがスッポリ抜けていたり、ハロウィンを楽しんでいる人の想いが全く入っていないので。

 なので当事者からしたら大きなお世話ということが多いのではないだろうか。

 しかし、便所の落書きというものは昔からあるものだし、話題になるかならないかで私も文章も同様でしょう。
 ではなにがモヤモヤするかというとその意見を支持する顔が見えない人の数です。感情的に賛同しているだけということで特に意味はないのかもしれないですが、「いいね」が「シェア」に変わればフェイクニュースに変わる可能性もあるし、印象操作だっていくらでも出来てしまうでしょう。ネットという顔の見えない、情報が溢れている社会のなかで人間の思考というものは感情ばかりむき出しのものになってきているのかもしれない。
 その様は子どものころに先生などにいわれた「知らない大人にお菓子をあげるといっても付いて行ってはいけないよ」という言葉を思い出します。

 確かにどんな犯罪行為の片棒を担いでいたとしても、知らず知らずのうちに拡散や賛同をしている人であれば罪に罪に問われることは少ないでしょうし、アカウントを消してしまえば誰にも知られることもないかもしれません。ただ、そんな時代だからこと私は実感と体験を大切にしたいと思いますし、終わり方(消え方)というものを考えてみたいと思います。

 去年渋谷で軽トラが襲われたことがありましたが、そんな時に「次から渋谷で軽トラ転がし大会をしたら面白いのに」といった人がいました。
 不謹慎ながら私はそれは大変面白いと思ったし、去年の渋谷ハロウィン問題の対策として警察などで押さえ込むよりもいい決着のつけ方だったのではないかなぁと思ったりします。

ちなみに田舎モノの私からハロウィンを見たら
アレだけ多くの仮装をした人が、
何のイベントもない(ゲストが来るなど主催がいない)のに
渋谷という人気の陰りだした街に集まることは
素直にすごいなと思います。

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