祇園祭
今日地元のお祭りに行ったのだけども、なんか物足りないというか、ワールドカップコートジボワール戦敗退後のスクランブル交差点のように感じた。
これを私なりに分析してみた。
まず、お祭りは観光客のためにやっていないのではないか。
そもそもお祭りというものは、神様を祀る儀式であったりするわけだ。もう少し踏み込むなら神様というものをいいように使い、町や村の人々のストレス発散の場であったのではないかと私は考えている。
というと別に他の誰のためにする必要はないのだ。
同じ集落の人たちと結束を固め、今までのストレスを解放することでよりいい関係を作れればいいのだから。
しかし、これでも盛り上がるお祭りもあるのだ。
浅草の三社祭りとか阿波踊りとかこれも元は同じようなものではないのだろうか。しかし今回上田市で行われた祇園祭とは明らかに違う。
もちろん規模もそうなのだが、そこにかける意識が違うと考えている。
三社や阿波踊りに参加したことが無いので全くの推測なのだが、みなその瞬間に全力を尽くしていると思う。そしてたとえようもないかっこよさがあるのではないだろうか。
それでなければ、それを目当てに移住を考えたりはしないはずだ。
今回の祇園祭で感じたのはそこなのかもしれない。皆ただ騒いでいるだけなのだ。
誰と協力して作ったのか、どれだけの準備をしたのかは分からないし一生懸命やっている人には大きなお世話だろう。ただそのかっこよさよりも柄の悪さばかり目立ってしまっていたように感じた。
楽しいところに人は集まるだろう。しかし、騒いで群れるのは同列ではないはずだ。
今回の祇園がすべてそうとは思わない。ただ私には中途半端な騒ぎが正当化されているように感じた。
ゴールを求めるようにとは言うよりかは、なんでそれをしているのかを考える習慣をつける必要性があるのではないだろうか。
さて、ここまで言っておいて私は、騒ぐ場面も必要だと思うと言ってみる。
想いが貫き通していて、本気ならばその騒ぎもかっこよさが加わるはずだから。
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