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【自己責任の正体04】 ~公的責任とは何か~


 これまでのお話では、どちらかと言うと「自己責任」の真の中身について掘り下げることで、この社会におけるリスク回避について考えてきました。

 その中で、100%の自己責任というのも間違っているし、逆に、100%の公的責任というのも違うんだという「割合の問題」にも気付くことができました。

 ですから、なにかマイナスの事態が社会におきても

「すべてが自己責任でしょうが」

ということはありませんし、逆に

「なんでも国家政府が面倒をみて、僕たち私達をさあ!幸せにしてくれ!」

というのも違う、ということに気付き始めていることと思います。


 話をシンプルにするために、よく用いられるのが「機会の平等か、結果の平等か」というネタですね。

 不平等で、損なスタートを切ることになるのはダメなので、せめて「チャンスは平等にしようぜ」という考え方が一方であります。

 また反対に「結果としてみんなが幸せになれるようにしよう!」という考え方もあります。

 自己責任とはハズレくじである、という話をずっとしていますが、「ハズレくじやジョーカー、ババをなくして、みんなが公平な持ち札になるように調整しよう」という考え方が生まれるのも、ある意味では当然です。

 その究極が共産主義なのですが、

実際には共産主義国家で市民の平等が実現している国は存在しない

ので、これも最初のほうに出てきた

絵に描いた餅では、いいことを言っていても意味がない

というのが現実だったりします。

 実際には世界のどこにも、人々が等しく幸せになれるような政府や国家は存在しません。みなどこの国も、鋭意努力の途中で、まだ道半ばなのです。


 では、完全なる公的責任というものが実現できないとしても、政府や社会は何を理想とし、めざすべきなのでしょうか?公的責任とは、どこまでのレベルや範囲を想定すべきなのでしょうか。

 ひとつの回答としては、日本国憲法に掲げられた

「みんな健康で文化的な最低限度の生活を送れるようにしようね」

という基準なのですが、実際にはこの言葉がどのレベルに相当するかを判断するのは難しい現実もあります。

 車を持っているのは認められるべき文化的生活なのか、クーラーは必須なのか/ぜいたくなのか、など、生活保護のレベルですら、議論が多く判然としません。

 もっといじわるを言えば、憲法では「最低限度の生活」を掲げているので、生活保護が目指すのは

「最低限の生活」

であり、「最底辺の生活」でOKとも読み取れます。

 国家の責任は、もう「最低限」しかない、と憲法に書いてあるのですから、そこから上を目指すことは、自己責任という意見もあるでしょう。


 しかし、少なくとも政府や社会のよいところは、問題や課題がそこにあって、今だ解決をみないけれど

「なんとかしなくちゃいけないよね」

というコンセンサスが皆にあるところはすごい!と考えてよいと思います。

 たとえば、何かの法律で「健康で文化的な生活」とは

◆ 住居には屋根と壁があること

◆ トイレと風呂があること

◆ 水道とガスもしくは電気が通っていること

◆ 衣服が足りていること

◆ 病気に対して手当てが講じられること

と決めてしまって、それを満たさないものには自動的に援助が入るようにしてもいいわけです。

 そうすると、日本国民はみな憲法に従って、最低限の文化的な生活が送れている、ということになります。その代わり、それ以上のことについては、

しらんがな

という姿勢を国家が貫いても、まったく問題ではないはずです。


 しかし、現代の世界の政府や社会は、そうやって基準を設定してそこまでしかやらない、というやり方はしていません。できれば一歩でも、一段階でも幸せに近づくことはできないだろうか、と相互に努力したり、制度を整えたりする方向性は持っています。

 これも、まあすごいことだと言えるでしょう。政府や社会は、施策を完成させてはいないけれど

「投げ出したり、やめてしまってはいない」

のですから。

 もちろん財源がなくて、制度の内容が後退することはあるでしょう。しかし、調整機能が常に働いており、今回のコロナのマスクや10万円のように

「何かはせねばならない」

と全ての人が思い続けているということは、未来に希望を感じられるよい面だと思います。


 このように文化文明とは「あきらめずに幸せを希求すること」と定義することもできます。

 人がより幸せに、快適に生きるために「努力したり、工夫したりする様子、さまがズバリ文化文明の発展である」と言えるわけですね。

 それがうまくいかなくてもいいんです。なんとかしなくては!と施策を問い直し続けることが「公的責任」とイコールであるとも言えるでしょう。


 ということは自己責任も同じで、今度は個人のレベルで「あきらめず、努力したり工夫したり、幸せを追い求めること」と言ってよいことになります。

 自己責任はゼロであり、政府や社会がなんとかしろ、オレはしらねえ!

と、うそぶくことは、許されないということです。ある意味、自己責任と公的責任とは、

「幸せ探しのガチバトル」

であるとも言えます。「俺が幸せを見つけるんだ」「いや俺だ!」とせめぎ合うと、実際によき社会に近づきますが、

「お前が勝手にやれ」「お前がやればいいんだ」

と互いに責任を投げ出し合うと、文化文明は崩壊へ向かう、というわけですね。


 だから政府に対して「こうしてくれ、ああしてくれ!」という要求を出す社会はあまりよくなく、

「オレが政府の金を使って、なおかつオレ達が幸せになるのだ」

くらいのほうがよいということです。日本では野党も与党もものたりないのは、互いに文句の投げ合いになっているからかもしれません。

 まあ、このあたりは完全に余談です。読み流していただいてもOK。


 まとめに近くなりますが、公的責任の考え方で忘れてはいけないのは、

「お上が助けてくれるべきだ」

というものではないということです。

「金を出すのは結局オレたちなのだから、どう使うのがマシか」

という話が本質です。

 もし、「お上が丸抱えすべきだ」論が優勢になると、どんどん税金が上がり、持っていかれます。そこからしか財源がないからです。

 だから、公的責任を突き詰めても、結局

「自己責任(自分たちの金の使い方)」

に話は戻ってきます。

 こうして考えると、やはり人間社会のベースは自己責任であり、ハズレくじを引いた場合に対しての「下支え」「補助」には公的責任は使えるけれど、万能ではないことを理解するほうが、

マシ

だと言えるでしょう。制度設計はその「より、マシ」なほうを目指しての人類の悪アガキの面もあるかもしれません。


 ちなみに余談ですが、ヨシイエ個人としては理想としての公的責任社会をあまり信じてはいません。国家、政府、社会のいずれも、公的責任、扶助をうまく取り回せるほど、成熟していないと感じます。

 ですからそれらから身を守るために「防御としての自己責任論」を心しておくほうがマシだと思います。

https://www.huffingtonpost.jp/karin-amamiya/self-responsibility-japanblog_a_23610072/

の記事は大変に有用だと思います。

 実は江戸時代から日本社会はぜんぜん進歩しておらず、「下支えはしてやるが、それ以外は全部自己責任だぜ」と言っていることがわかる良記事です。


 今は現代で平成で令和なのだから、江戸時代よりも進歩しているべきだ!という理想もわかりますが、進歩すべきのは行政ではなく、私達の普段の生き様なのかもしれません。


(つづく)





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