見えないボールでのキャッチボール-亀海喜寛の“解なき最終解答”


我々に視力が正常にあれば、普段の生活の中で身近にある"ボール”は自分自身の目で見える。
そのボールを掴み、投げるとする。
様々な大きさや重さのボールを幼少期からキャッチボールなどをしているからこそ、これぐらいの重さなら、これぐらいの大きさなら、これぐらいの力と投げ方でどこら辺に飛んで行くか、などとわかる。
そして投げられた方も、飛んで来るボールの速度と角度を目で確認し、到達点を予測しつつ、手を差し出しキャッチする。
これが、例えばこの世のボール全てが目に見えなければ、まずはその存在を探し出すところから始め、何度も実験を繰り返さなければ、ボールがどんな投げ方で、どこに飛ぶかは多くの人には見当も付かないだろう。

1.
産まれたばかりの赤子がベビーベッドに寝そべっている。
成長するに従い、いつしか眼前(※赤子の視点から、天井に向かって動く)ベッドメリーを見つめ、興味を持ち出す。
しかし、赤子は自らの手足の存在と扱い方を、まだ知らない。

だが目まぐるしく成長する赤子は、ふと自らの手を伸ばし、その自分自身の手の存在に気が付く。
まじまじと見つめ、眼前に動く自分の手に興味を持ち。それをしゃぶってみる事を試みる。
それを繰り返し、『なんだこれ?これ、今自分で舐めていて…あれ?あれ?もしや、これ自分の体の一部?』
という感じに気付くのだという。
その自分の体と気付いた腕、手でベッドメリーをまだおぼつかない手で掴みに行く。

そして、成長していった赤子は寝ているだけでなく座る事を覚え、そこで更に、眼下に見える自らの足に気付く。
これはなんだ?と足の存在を知るも、それが自分の体の一部とは気が付いてはいない。
自在とは行かなくとも、自らの意志で扱えるようになった手で足を掴み、興味深く見つめ…引き寄せ、しゃぶる。
『…これ、自分の体じゃん!』
そう気付き、楽しいのかどうかはわからないが、とにかく夢中にしゃぶりつづける。
こうやって、目で見る、手足を伸ばし、触れる。
それらを行い、自分の体を認知し、自分の体をコントロールする術を身に付けて行く行為を“ハンドリガード”と呼ぶのだという。

ここで冒頭の話に戻る。
我々がキャッチボールを出来るのは、幼少期から様々なサイズ、様々な重さのボールでお互いにボールを投げ合った経験などが非常に大きいだろう。
経験がなく、そしてボールの存在が見えなければ、キャッチボールすら難しい。

そこでまず普段の生活に話を持って行く。
自らの肩先。その腕や拳が見えなければ、それがどこに届くのかを知るのは難しく、そして我々が見えているように、当たり前に何かを手に取ったりという作業もかなり高度な作業になるのではないだろうか。
見えているからこそ、自分が思うようにコントロールをし、器用に操れる。
見えていなければ、途端にそれは高度な作業となるのだ。

2.
〈パンチの視覚情報〉
ボクシングに話を戻してみよう。
標的を見据え、ジャブやストレートでそれに対して真っ直ぐに拳を打ち込む。
これを、ゆっくり行えばほとんどの人が、自分の拳で標的を捉えるだろう。
では、速度を速めたり、更には強く打ち込めばどうだろうか。
途端に難易度は高まる。
体のコントロールだけでなく、"速く、強く"という事で力みを生じやすくなる為、心のコントロールも必要になるだろう。
更に、フックやアッパーなど、主に弧を描くパンチだとどうなるだろうか。
個人差はありつつも、基本的にはより高度な技術になり、打撃精度が低い選手だと小さな標的を拳で正確に捉えることが難しくなる。
だからこそ自らの拳におけるスウィートスポット。最も打撃の威力が伝わる距離や角度、打ち方や拳の当て方などをボクサーは探し求める。
それを日々、試合で打ち込む事を胸に秘め、繰り返し研鑽し続けるのだ。

この磨き上げる作業で、しっかりと目で拳の行く先、パンチの軌道を見なければどうなるのか。
ボクサーは1日にトレーニングで、一体何発のパンチを打つのだろう。
その全てが、目を逸らし、視覚情報と肉体の感覚が擦り合わされずに行われていれば、それはトレーニングで得られる効果を損なう、大きな損失ではないのだろうか。

3.
〈崩し合いの弊害と、対処〉
しかも実戦になれば、お互いが相手の姿勢を崩し合う。
相手の姿勢を崩すというのは、単に相手を自分の拳で打つだけではない。
自らが拳を打ち込めば、打たれた相手はその分物理的なダメージを負う。打たれなくとも、かわしたり、ブロッキングをしたり、ステップワークを使って外しても、相手の姿勢は僅かであろうが崩れるのだ。更にはフェイントや打ち出すタイミング、打ち分けなどもあるし、そのパターンは多岐にわたる。
それが相手からも行われるし、密着すればお互いが押し引き、グローブだけでなく腕や体を上手く使ったいなしなども行い、時には頭や肘などを使い、反則スレスレの行為で相手を困惑させようとする。
これらが絶えず行われる事でパンチを放つ土台、すなわち姿勢を保つことは困難になるのだ。
尚更、強く鋭い打撃を、的確に急所へ打ち込むことは困難になるのは明白だろう。

更には土台の部分、足元の状況でも変わって来る。
何故か?
平坦な硬い床と、凸凹な傾いた山道、もしくは足場が行く様にも変わる砂場、摩擦抵抗の少ない氷面。それらの場所でパンチを打てば、その精度、強度には明らかな差が出るだろう。
だからこそ敢えて不安定な場所でのトレーニングを行ったり、シューズを変えたり、もしくはそれすら脱ぎ、裸足でのトレーニングなどを交えたりもするべきだろう。
リングの床、即ちキャンバスが固い場合も柔らかい場合もあるし、布の張られる強さなども変わるのだから。
そんな様々な状況で打ち出す拳の行く先を自らの眼で見つつ経験をしなければ、結局不安定な場所、足元の状態が普段と違う場合、それらの経験値が上乗せされにくくなる。

また、国や地域でキャンバスの柔らかさが違うのはよく言われる事でもあるが、足元ではないがロープの張りも違う。
ロープに寄り掛かりつつ相手の攻撃をいなし、自分の打撃を打ち込むのは、ボクシングでまま見られる光景だ。
もしくは逆もあり、ロープに追い詰めた選手が、後方にしなる相手に攻撃を仕掛ける姿も同じように見られる。
決して、普通に立っている構えから攻防を行うだけなのが、ボクシングではない。

ちなみに少し違うが、フォームを変えた時なども同じような現象が起こりやすい。
フォームを変えるということは、パンチを打ち込む為の土台である自分自身の形、バランスを変える事でもあるからだ。
そもそも、毎日のコンディションや気分によっても、必ず僅かながらでも動きのムラは出て来る。
だからこそ色々な状況で、しっかりと眼で見て確認し、視覚と体の協調性、相手の動きへの調整能力を高めなくてはいけない。
それを試行錯誤しつつ継続する事が、確実にパンチと動きの精度を上げることに繋がるだろう。

4.
〈視覚に頼らない場合〉
ここで、では必ず"相手を見ていなくてはいけないのか?"ということに疑問を持つ方もいるだろうし、そこに触れておこう。
答えは、ケースバイケースとしか言いようがない。
アルゼンチン出身の元2階級制覇チャンピオン、セルヒオ・マルティネスがポール・ウィリアムスを倒した左のオーバーハンドや、ダニー・ガルシアがアミール・カーンを倒した左フックなどは、パンチを最後まで見ずに、完全に目を逸らした状態で打ち込み、そして対戦相手に痛烈なダメージを与えた。
何故か?
それは、それまでに膨大な数のパンチを放ち、その際の自分の放つべき拳の位置や進行方向を幾度となく確認し、イメージが出来ていたからではないだろうか。
更に、自身のパンチではないが、相手の動きなども実戦で向き合い目視し続けることによって、完全ではなくも予測がつきやすくなってくる場合が多い。
相手をしっかりと見る事で培われた洞察力は、自身の拳の到達点と相手の動きの先、それらの未来繋ぎ合わせる事で、最高の一撃を生み出す事にも繋がる。

5.
〈日常生活に潜むヒント〉
ボクシングの指導をしていても、標的に対してどうしても拳の当たる箇所がズレたり、安定しない人は多い。
自分が思う自分の拳の届く位置と、自分の体の動きに誤差があるのだ。
例えば、自宅から最寄りのコンビニや商店、職場や学校に向かう。
徒歩でも車でもなんでもいい。自分の意思で向かっていれば。
毎日行動しているその道、その光景はすぐにイメージ出来るのではないだろうか。
もしくは、自宅にいる際、何らかの原因で夜中に停電などで暗闇になるとする。
暗闇に目が慣れずとも、家具の位置などを把握している為、ゆっくりではありつつもほとんどぶつかることなく行動が取れるのではないだろうか。
同じように自らの拳の進路、到達点、をしっかり目視し続け、自分の脳内にインプットする。
結果的に、それがパンチの精度を上げ、更に攻撃の際の判断能力を素早くする事にも繋がるのではないだろうか。

6.
〈おわりに〉
ボクシングの試合で主に必要とされる感覚は、基本的には9割は視力なのではないだろうか。
もちろん、パンチを打たれた際には平衡感覚が重要となるし、ゴングやレフェリーの声、歓声やセコンドの指示は聴覚が働いている。
しかし、そのような例外を除けば、相手と向き合い、その表情の変化や呼吸の乱れ、些細な動きやガードの位置、頭の位置や立ち位置、そして2つの拳から放たれるパンチ。
それを見逃さず、自らもルールで認められる範囲で己の体と心を全て用いて、勝利を掴む為に標的に対し拳を打ち付ける。
その勝利は、自身が勝負の恐怖に打ち勝ち、それを掴み取る為に凝視していなくては、ただ空を掴むだけになってしまう。
勝利は目を逸らさず、自らの拳を伸ばした先にあるのだ。

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