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『草を刈る娘』プログラム・ピクチャーを読む

『草を刈る娘』はプログラム・ピクチャーと呼ばれる企画ものの映画である。
話の筋は以下のようになる。(抜粋)
津軽平野に秋がくると、この地方では草刈り隊ができて二週間ほど馬草を刈る。近くには温泉もあり、若者たちには楽しい年中行事だ。十八才のモヨ子は草刈り隊のリーダーそで子婆さんに連れられて、初めてこの草原に来た。同じころ、近くの草原に富田集落の草刈り隊が来た。そのリーダーため子婆さんとそで子婆さんは大の仲よしで、毎年この草刈りで結婚話をまとめるのが楽しみ。こんどもそで子婆さんが連れて来た真面目な若者時蔵が、モヨ子に似合いのお婿さんだと結論が一致した。翌日、モヨ子は一人で山奥の草刈り場にやられ、そこで一生懸命刈っている時蔵に会った。二人きりで草を刈ったというので、両方の草刈り部隊は話の種ができて大喜び、当の二人の心も知らず知らず結ばれていったが、ある日時蔵がモヨ子を抱きしめようとしたので、モヨ子は時蔵の腕に噛みついて逃げた。この事件で草刈り場は大騒ぎ、しかも東京から帰ってきた青年一郎がモヨ子にモーションをかけたりする。だが、心の底ではモヨ子はやはり時蔵が好きだ。ある夜、時蔵は一郎にケンカを売られる。体力的にとてもかなわぬ時蔵は、あっさり負けを認めるが、モヨ子はそれが歯がゆい。ところが、そのとき、村娘が林で殺されるという事件が起こった。「亭主があればこんなことにならねえのによ」というそで子のつぶやきに、モヨ子は夢中で時蔵のところへとんでいった。「おら、お前の嫁になりてえや」。翌日、幸福に包まれた二人は、秋の日ざしの強い草の上に寝ていた。

プログラム・ピクチャーの監督たちには取り立てて画像に対するこだわりななければ、自己表現としての映画を撮る気もないだろう。映画会社から与えっれた仕事を決められた範囲でこなさせばよろしい。自己主張も政治的、社会的な主題もいらない。門切り型で、記号的なイメージを作り上げ、観客に喜んでもればそれで事足りる映画である。
『草を刈る娘』では、主演の吉永小百合はいかにも東北弁を話す農家の娘を演じればよかった。しかし映画の最後に私は吉永小百合のあか抜けない演技が気に入ってしまった。これはどういうことか?吉永小百合の演技力が素晴らしいのか?違う、生涯を通して吉永小百合が名優であったことなどなく、スターを演じた存在だった。スタートは女優ではない。吉永小百合は生涯、吉永小百合を演じる事が仕事であり、運命であった。そもそも吉永小百合の演技はあか抜けない演技なのである。そのあか抜けさが押し目もなく露出している。

では監督の西河克己はどうか?典型的な職業監督で、歴史に名前を残そうなどと考える人物でもなく、才能も運もなっかた監督である。
吉永小百合主演の青春映画を何作か作って雇われ監督の一人である。『草を刈る娘』を魅力的にしているものはなにか?演出もこれみよがしに定型的である。
若者時蔵が、モヨ子の前に白い馬と共に現れる、絵にかいたようにモヨ子にとって白馬の王子様である。
ため子婆さんとそで子婆さんは大の仲よしで、毎年この草刈りで結婚話をまとめるのが楽しみ、その二人がで出会うのは山脈を背景に右と左から大写しで、二人が駆け寄るシーンが、何度か繰り替えされる。ふたりの婆さんはキューピットのように二人の若者を結びつける役割を担っていることが、田舎芝居のように演出されている。
同じ背景で時蔵とモヨ子の農夫の友達同が二人のケンカの弁明行く途中出くわし、そのまま恋仲になってしまうシーンも田舎芝居の典型である。そうこの映画はあか抜けない田舎芝居である。シネフィルの映画評論家であれば無視する映画であり、記号的な農村の生活にあふれた作品に落としこまれるであろう。それでもなお、私を魅了するものはなにか?
まず音楽が素晴らしい。これもまた本当の農民たちの生活が反映された音楽でななく、取ってつけたように画面に重なる音楽である。それゆえ音楽は画面から浮いて見えるし、ここでもまた田舎芝居的演出が続く。しかしこの取って付けたような音楽は紛れもなく農民たちの生活を祝福している。それは農民自体が取って付けたような存在なのだ。
農民と言えば聞こえが良いが、歴史的に言えば植民地に追いやられた農奴である。農民は稲作という大和時代から続く年貢のための食糧を作るために存在した制度でしかない。農家が自然発生的に農業を愛し、自然を愛し、素朴な存在であると考える方がおかしい。そして百姓は武士にもなれる百の才能を持った存在として底辺に存在してきた。
音楽の話に戻そう。吉永小百合の劇中で歌う 「草を刈る娘」は民謡でも古歌でもない、映画のために作られた歌謡曲であるが、観客は田舎の民謡と勘違いするだろう。歌詞はこうである。

お前と道連れ裾野さ行けばヨー
まんずまんず
馬っコ勇むし、轍(わだち)も軽い
まんずまんず
今年しゃ山程、馬草刈ろ
まんずまんず

「まんずまんず」というのは、「本当に、本当にそうだ」ということになり、 「結論としては全くその通りだ」あるいは「そういう事は確かにあり得るだろうなあ」 「本当にあなたの言う通りだ」 といったような意味。

この意味に最も近いのがキリスト教徒が唱えるアーメンである。意味は「本当に」「まことにそうです」「然り」「そうありますように」である。

「草を刈る娘」は神に捧げた映画なのだ。

この取って付けたような歌と画像と吉永小百合のあか抜けない演技をすべて肯定するかのように、そうでありますようにと祝福する。農家の生活は映画のセットのように張りぼてで薄っぺらで、自然を愛するとかは無関係であるが、それを承知の上で、劇中の音楽は農民の生活を祝福、肯定する。そこにある筈の危うさは画面からは排除される。監督の西河克己はこの歌詞の意味を意識もしてなかったであろう。彼はただ職人として映画を撮っただけなのだから。

無垢について語ろう。十八才のモヨ子は劇中何度か傷つくが、貞操を守り通す。この映画が守らなければならないのは貞操であり、無垢さである。時蔵が抱き着くシーン、東京から帰ってきた青年一郎の誘惑、温泉で意識を失うため子婆さん、モヨ子を傷つける仕掛けが何度か用意されているが、大事には至らない。何故か?モヨ子=吉永小百合(は傷ついてはいけないからである。そしてこの映画も無垢のままでいなければならない。映画の筋でも無垢さを失わせる仕掛けが施されている。物売りの胡散臭い商人、殺される女、知恵遅れの男、話が陰惨になる手前で踏みとどまってる。そのような悲惨なリアリティはこの映画に必要ないのだが、そもそもリアリズム自体、ファンタージの一種であるのだから、ここで議論する必要はない。この映画は張りぼての農民の幸せを、これまた取って付けたような歌で飾る。しかしこの危うさ=無垢さは捨てがたい。ロバート・フラハティ監督作 「ルイジアナ物語」を私に思いださせる。

<wiki抜粋>
ルイジアナ州の広大なbayou(湿地)に両親と住む少年アレクサンダーの物語。
アレクサンダーは小さな手漕ぎボートにアライグマのJojoを乗せ(ジャケ写通りこいつが可愛い)、穏やかな湿地で魚を獲ったり、猟に出たりしている。父親が油田掘削の許可書にサインし、しばらくすると大きなやぐら(デリック)の掘削リグで採掘業者の作業が始める。興味津々のアレクサンダーは現場に顔を出し、作業員と仲良くなる。ある日、現場でトラブルが発生し、死傷者など出なかったものの掘削は中止となってしまう。

環境保護団体の目からすれば、あまりにもナイーブな映画で、その後ルイジアナ州の広大なbayou(湿地)がどのような被害にあったかを考慮すれば、まったく批評がないダメな映画に分類されるだろう。近代化=産業化が進む前のほんのわずかな時間、そこに住む少年と採掘業者たちの幸せな時間と空間が描かれている。余りに美しすぎるロバート・フラハティ監督の画像ゆえ、その危ういさが際立っている。『草を刈る娘』の農民たちの生活も近代化=産業化が進む前のほんのわずかな時間でしかない。数年先には機械化が進み、馬草を刈る年中行事もなくなり、男は都会へ労働力として駆り出されるだろう、婆さんたちのおせっかいの見合いもなくなり、女たちもてんでばらばらと他の街へ消えるだろう、馬草刈りで集まることもなく、噂話もなくなり、ケンカ、夜這いもしない人々、歌は消え、祭りの灯も消える。田舎芝居の幕は閉じる。

最後にプログラム・ピクチャーについて。
<wiki抜粋>
日本では1950年代から1970年代にかけての量産体制下で、メインではなくむしろ添え物として作られた作品をさす。
日本映画で1950年代半ばから60年代半ばまで、もっとも強固に映画を量産して多数のプログラムピクチャーを製作したのは東映であった。
映画評論家の佐藤忠男は「極度に定型化されてマンネリズムになるが、絶対に狂うことはない強固な秩序の幻影も成立する。日本映画の最盛期に最も安定して儲かっていたのはこの種の映画であった」

日本の農家の共同体が機械化に消滅したように、プログラム・ピクチャーも映画産業から消えった。たとえ2流、3流に分類される映画だろうと、我々に呼びかける映画は存在する。
吉永小百合というプログラム・ピクチャー・スターは多くの駄作に名前を連ねる。プログラム・ピクチャーという張りぼての映画こそ吉永小百合が生きていける場所であった、それは我々の生きていける場所でもあった。

そこには自己言及はない、自己言及とは自分の糞を見てゲンナリして、それをつらつら書き連ねる。これが近代文学の正体である。プログラム・ピクチャーには自己言及は必要ない、言われたことをやるだけである。モヨ子=吉永小百合は傷ついてはならない、傷つく事は神を失った近代人の払う罪であり、プログラム・ピクチャー・スターのすることではない。自分を見る事は禁止されている。
事実、この映画の中で鏡が出て来ない。青年一郎から貰った首飾りをモヨ子=吉永小百合は鏡で確認する事もない、農民の夫が妻にスカーフをプレゼントするシーンにも妻は自分の姿を鏡を見て似合うかを確認する事もない、この映画の世界に鏡が存在しないように、農民たちは自分を鏡に投影することはしない。鏡に映った瞬間に彼らは消えてなくなるからである。
多くのものが鏡を見た瞬間に消滅していった。


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